上杉景勝(2/2)義に厚い北陸の雄
上杉景勝
家康の専横的な振る舞いが目立つようになると、石田三成側に付いた反徳川家の勢力が徐々に反発する動きを見せるようになりました。
慶長5年(1600)上杉景勝は会津若松を中心とした自国の領内にある城の補修を始めます。
これに対して徳川家康は、城の改修を行い戦いの準備を進める上杉景勝に対して上洛し説明するように求めましたが、景勝はこれを拒否。この時、直江兼続により出された返答が家康を挑発するよう書かれたことにより戦いが起こったとも言われています(直江状)。
家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣します(会津征伐)。ところが征討の軍を出し大坂を離れた徳川家康の留守を狙って、大坂でも石田三成を中心とした反徳川家が挙兵しました。
関東にまで達していた家康は大坂へ取って返して石田三成と対峙します。
上杉景勝は、徳川家康に与した伊達政宗や最上義光と戦う事となりました。
しかし、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると上杉景勝は徳川家康に降伏します。
慶長6年(1601)、景勝は直江兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許されます。存続は認められましたが、出羽国米沢30万石に減移封されました。
米沢藩主とその終わり
関ヶ原の戦いで敗れた上杉家は、改易(取り潰し)は免れたものの、100万石ほどあった領地は30万石へと減らされました。ところが上杉家では家臣を放逐する事無く、家臣のほとんども上杉家を離れることなく米沢へ移ったと言われます。
上杉景勝は出羽国の米沢城を改修して居城とし米沢藩の運営に集中します。
慶長19年(1614)、豊臣秀頼と徳川家康とが対立すると、上杉景勝は徳川家に起請文を出し、徳川家への忠誠を改めて誓います。
そして大坂の陣が始まると、直江兼続と共に自身も出陣し戦いました。
大坂の陣が終わると、日本の中でも戦いはほとんどなくなり以降、幕府に従いながら藩政に尽力しました。上杉家は石高の変化はありましたが、幕末まで米沢藩として続きます。
上杉景勝は、感情を表に表さず表情も変えない事で、慄然とした性格を持った人物として映り一種のカリスマ性を持っていたと言われています。
叔父であり先代の当主であった上杉謙信が刀剣の愛好家であったように、上杉景勝もまた刀剣に関する審美眼を持っていたと言われ、上杉家の刀剣から特に上杉家御手選三十五腰(うえすぎかげかつさんじゅうごこし)を残しています。
元和9年(1623)上杉景勝は米沢城に於いて亡くなります、享年69。景勝は殉死した家臣と共に法音寺に葬られました。
上杉景勝の所縁
- 雲洞庵(うんとうあん)
- 雲洞庵は、新潟県南魚沼市にある寺院です。『日本洞上聯燈録』によれば奈良時代、藤原不比等の妻、藤原先妣尼が庵を結び開祖とする伝承を持ちます。
室町時代になると直江津を本拠としていた関東管領、上杉憲実が永享元年(1430)に、傑堂能勝の法嗣、顕窓慶字を招き禅寺として再興したと言われています。
戦国時代後期、上杉景勝やその家臣である直江兼続は雲洞庵で幼少期を過ごし、通天存達(第13世住職、長尾政景の兄)などから勉学を学び育ったとされます。 - 坂戸城・銭渕公園、米沢城・松が岬公園
- 坂戸城のあった場所に銭淵公園はあります。ここに上杉景勝と直江兼続の像として「喜平次・与六の像」が設置されました。小説「天地人」の原作者火坂雅志が台座の「喜平次と与六」という題字の揮毫を、戦国絵巻作家の正子公也が銅像の原画監修を行って建てられています。
また、米沢城のあった松が岬公園には「天地人」のドラマを記念して、上杉景勝と直江兼続の銅像が建てられました。 - 米澤藩主上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)
- 上杉家廟所は、山形県米沢市にある上杉謙信と米沢藩上杉家藩主の墓所です。
天正6年(1578)上杉謙信が越後国春日山城に没すると、上杉家は遺骸に漆を塗ったうえで甲冑を着せ埋葬しました。後継者となった上杉景勝は、豊臣秀吉から会津へ転封を命じられると、謙信の霊柩も越後から会津へと移され仮堂を立てて祀ったと云われています。
さらに慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで敗れると、上杉家は米沢領へと移され、謙信の遺体も再び移動することになります。景勝は米沢城本丸に御堂を立て、謙信そこに移し祀りました。
元和9年(1623)景勝が亡くなると現在の上杉家廟所に埋葬され、歴代の藩主も埋葬されることになります。明治時代に入ると全国の廃城令によって米沢城は解体され、謙信の霊柩も移動することになました。現在の上杉家廟所は米沢城の北西に位置し、米沢城に変事があった場合、謙信の霊柩を仮に避難させる場所として設けられたそうです。
昭和59年(1984)「米沢藩主上杉家墓所」の名称で国の史跡に指定されました。
会津若松城(あいづわかまつじょう)
会津若松城(或いは若松城とも)は、福島県会津若松市にあった城です。別名、鶴ヶ城とも呼ばれていますが、同じ名の城が他にもあるため、一般には会津若松城の名で呼ばれています。
元々は、この地を治めていた蘆名氏により建てられた黒川城が始まりとされています。その後、蘆名氏が滅び豊臣家の治世になると蒲生氏郷によって領されるようになり、城も黒川から若松へと改名されるようになりました。
蒲生氏郷が亡くなり、蒲生家の中でお家騒動が起こると豊臣秀吉は上杉景勝を越後から会津へと転封させます。
その後、関ヶ原の戦いが起こり、石田三成率いる西軍に与した上杉家は敗れ、出羽国米沢へと移されました。
江戸時代を通しては、3代将軍徳川家光の弟、保科正之が治める事となり、以降会津松平家(保科姓から改姓)が明治時代まで治めます。明治時代に入る直前、会津戦争の激戦地となった若松城は痛みがひどく、暫らく放置された後に解体されました。
昭和35年(1960)ごろまでには天守閣が復元され、国の史跡として若松城跡の名称で指定されています。平成18年(2006)には日本100名城の一つに選ばれました。
4月から5月に掛けて若松城では、鶴ヶ城さくらまつりが行われ毎年、1000本の桜がライトアップされ市民の楽しみとなっています。
米沢城(よねざわじょう)
米沢城は、山形県米沢市に中世から近世にかけてあった城です。
戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出世の地でもあります。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、会津若松城を領していた上杉氏は領地を減らされ、米沢に転封されました。以降、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となります。
江戸時代が終わり、明治時代が始まると明治6年(1873)には城の建物が全て破却され、翌明治7年(1874)城跡は松が岬公園として市民に一般開放されました。
現在、城跡は水堀のある公園、松が峰公園として親しまれています。その中で、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)があります。
- 米沢上杉まつり
- 米沢上杉まつり(よねざわうえすぎまつり)は、山形県米沢市で毎年4月終わりから5月初めに行われるお祭りです。
戦前から行われており、「県社(上杉神社)のまつり」や「城下のまつり」として親しまれ、雪国の米沢に春を告げる伝統行事として行われています。
4月29日は上杉謙信の命日に当たり、この日に開幕式とパレードが行われます。
その他、上杉謙信が合戦前に必ず行ったという軍の守護神を招くための儀式である武禘式や武者行列、川中島の合戦を再現されます。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。