上杉景勝(1/2)義に厚い北陸の雄
上杉景勝
戦国時代、「甲斐の虎」と周囲に恐れられた武田信玄に対抗したのが、「越後の龍」上杉謙信でした。その謙信が亡くなった後、上杉家を率いたのが上杉景勝です。景勝は、関ヶ原の戦いで石田三成と組み徳川家康と戦いました。関ケ原の戦いの後は、米沢藩上杉家をまとめ、明治時代まで続く米沢藩の礎を築きます。本日は、家康と対抗し、米沢藩を築き上げた上杉景勝について見ていきましょう。
景勝誕生と長尾家
上杉景勝は弘治元年(1556)、越後国魚沼郡(現在の新潟県南魚沼市)の上田長尾家、長尾政景の次男として生まれます。上田長尾氏は越後国守護代長尾家の分家であり、母は長尾景虎(後の上杉謙信)の実姉、仙洞院でした。
兄が早世したため、跡継ぎと見られていましたが永禄7年(1564)景勝8歳の時、父の長尾政景が坂戸城近くの野尻池において溺死します。これは、舟遊びの最中に酔って溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺説、下平吉長による謀殺説がありますが、真相は分かっていません。
父が溺死した景勝は長尾家から上杉家(山内上杉家)を継いだ叔父の上杉謙信の養子となります。この時に事実上、上田長尾家は跡継ぎがいないこととなり上杉家に統合され、断絶した形になりました。
永禄9年(1566年)、上杉景勝10歳の時に謙信の関東出兵に従い初陣したと言われています。以降、景勝は越後の上田衆を率いて軍役を勤めることで謙信の下で成長していきました。
天正3年(1575)には謙信から弾正少弼の官途名を譲られ、謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」として上杉一門衆筆頭となります。
御館の乱(おたてのらん)
天正6年(1578)上杉謙信が亡くなります。
ところが謙信は後継者を指名しないで亡くなったため、上杉景勝と関東の北条家から養子に迎えた上杉景虎とで後継者争いがおきました、御館の乱です。
上杉景勝は、争いが起こると先に春日山城と金蔵を占拠し有利になります。そこで上杉景虎は春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もりました。
不利となった上杉景虎の実家、北条家は甲斐国(現在の山梨県)の武田勝頼と甲相同盟を結んでいたため、武田勝頼は景勝、景虎間の調停という名目で出兵してきました。景勝は一転不利に陥ってしまいます。
しかし、景勝は領地の割譲と黄金譲渡を条件として武田氏と和睦します。また勝頼の異母妹を正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化します。
翌天正7年(1579年)、景虎の正室であり景勝の実姉(或いは妹とも)清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害します。
また同じ年、和議を申し出ようとした景虎の養祖父、上杉憲政と景虎の嫡男とが何者かによって討たれ立場を悪くし景虎は自害してしまいました。
天正8年(1580)、景虎との家督争いに勝利し越後国を平定した景勝は名実ともに上杉家の当主となりました。そして戦後処理では出身母体の上田長尾家の家臣を取り立て、上田長尾家が完全支配する体制を築いていきます。
こうして上杉謙信の亡き後、3年ほどで上杉景勝は自身を中心とした体制を整えました。
織田家との対立、豊臣家との和平
上杉家は、上杉謙信が当主の時代、本願寺と和睦を結んだ事で織田家と敵対関係にありましたが、御館の乱の混乱により織田家と内通する家臣が現れました。上杉謙信によって勢力を拡大した上杉家は謙信の死後、御館の乱から織田家との戦いを通して、家臣の反乱などで統制力が衰えます。また、同盟を結んでいた武田勝頼も織田家に滅ぼされ、上杉景勝は危機に陥りました。
ところが天正10年(1582)、本能寺において織田信長が討たれたので景勝は危機を脱します。本能寺の変が起こる事により、織田家からの脅威に一息ついた上杉景勝は、勢力を回復していきます。
そして天正11年(1583)上杉家と羽柴秀吉(後の羽柴秀吉)とが良好な関係を築いていきます。上杉家は北陸における羽柴秀吉の戦いに関与し、北陸から越後国までの安定に繋げました。
天正14年(1586)景勝は上洛して秀吉と会見し、羽柴秀吉に臣従します。またこの時、正親町天皇に拝謁して左近衛少将に任じられました。
天正15年(1587)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は越後国で敵対関係にあった国人衆を討伐しほぼ越後の再統一を果たした他、佐渡・出羽両国へ侵攻します。
天正18年(1590)以降、秀吉の行った小田原征伐や朝鮮出兵にも参戦。豊臣家の重要な家臣となっていた上杉景勝は、秀吉の名代として朝鮮にも渡っています。
このように豊臣政権下で着々と地保を固めた上杉景勝は秀吉より信頼され、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられました。上杉領における金山・銀山からの収入は莫大なもので金の運上金が1124枚4両1匁4分2厘で全大名の33%、銀の運上金は2,021枚7両3匁3分3厘で全大名の59%に達していたと言われています。
ところが会津若松の蒲生家でお家騒動がおこり(蒲生騒動)、蒲生家では領地の運営が難しいと判断した豊臣秀吉は、上杉景勝に会津若松への領地替えを命じます。
慶長3年(1598)、秀吉の命により会津120万石に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれました。又、景勝を含む六人の大大名は豊臣家の大老に任ぜられ、小早川隆景の死後、景勝を含む五人の大老は豊臣家五大老と呼ばれるようになります。
会津征伐
慶長3年(1598)、豊臣秀吉が亡くなりました。
秀吉が亡くなると、豊臣家の大老である徳川家康と豊臣家の奉行であった石田三成とが対立します。上杉景勝の家老である直江兼続は石田三成と親しい関係であったため、上杉景勝は徳川家康と対立していきます。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。