平岩親吉(2/2)天下人から絶大な信頼を得た忠臣
平岩親吉
ところで家康の長男、松平信康の時もそうでしたが、謹直に徳川家に仕える平岩親吉への家康の信頼は絶大でした。そこで、家康は再び親吉に家康の9男義直の守り役を任せます。
慶長8年(1603)徳川家康の9男、徳川義直が甲府藩25万石に封じられると、幼少で駿府の家康の下にいる義直に代わって、親吉は甲府の管理を行います。
慶長12年(1607)、尾張国を領していた徳川家康の4男、松平忠吉が亡くなると、徳川義直がその後を受けて清洲城に入りました。親吉も義直の附家老として尾張国へ移り、犬山城12万3000石を拝領するとともに、尾張徳川家の藩政を行います。
平岩親吉は幼い義直を盛り立てながら、尾張国の統治を行っていましたが、慶長16年(1611)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去しました。享年70。
平岩親吉の墓所は現在、愛知県名古屋市にある平和公園内(平田院墓域)にあります。また、愛知県岡崎市にある妙源寺には徳川家の家臣、本多忠豊、忠高、安藤直次、高木清秀などと一緒に平岩親吉のお墓もあります。
平岩親吉の終わりと平岩家
平岩親吉には子がいませんでした。そこで徳川家康は平岩家が断絶する事を惜しみ、家康の8男松平仙千代(或いは家康の庶子、松千代とも)を養嗣子として与えていましたが、仙千代は慶長5年(1600)に亡くなったので、親吉には跡を継ぐ者が最終的にできませんでした。
親吉は亡くなった後に関して、与えられていた犬山藩の所領を仕えていた徳川義直に譲るよう遺言しています。ところが、家康は親吉の家が断絶する事をなお惜しみ、親吉との間に生まれたという噂のあった子を聞きつけて、その子に犬山藩を継がせようとします。
この子は増山河内守に仕え、堀隼人正重と名乗っていましたが、子の母親が新吉の子供ではないと固辞したため、親吉の系統の平岩家は断絶しました。
犬山藩は甥の平岩吉範が慶長16年(1617)まで支配していたと言われますが、その後、尾張徳川家の附家老成瀬家に引き継がれます。
親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり弓削衆と呼ばれました。また、江戸後期では姫路藩の藩士として家老として存続し、現在でも兵庫県等でその系統は続いているそうです。
平岩親吉と逸話
- 秀吉公黄金贈与
- 豊臣秀吉が伏見城を築城した時のお話です。
徳川家康は築城の祝いとして、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉を使者として派遣しました。
秀吉は訪れた4人に対して築城の祝儀として、黄金100枚を家康には内緒で与えました。
井伊直政と本多忠勝はそれを素直に受け取ります。榊原康政は受け取った後に、家康に報告しました。
平岩親吉は、「自分は徳川家康に扶持をもらい、衣食も足りているので辞退する」旨を述べ秀吉に対してその場で辞退しました。このような親吉の実直な性格を徳川家康は、大変信頼したと言われています。 - 『三河後風土記』(みかわごふどき)と平岩親吉
- 『三河後風土記』の作者の一人が平岩親吉と言われています。
『三河後風土記』は、徳川氏による幕府成立までの過程に関して書かれた書物で全45巻、徳川氏の祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの700年間余りを年代順に記述しています
この『三河後風土記』の序において、「慶長15年(1610)5月成立の平岩親吉著」とある事から、平岩親吉による著作と見られていますが、実際には正保年間以後に作成され、著書も実際には誰であるか不明とされています。 - 平岩の射割石
- 愛知県額田郡幸田町坂崎にある「平岩の射割石」は、平岩親吉の先祖、平岩氏重が徳川家康の先祖松平信光に従い坂崎の領主となった時、この巨石(現在残っているのは巨石の一部)に因んで「平岩」姓を名乗ったそうです。
甲府城(こうふじょう)
甲府城は甲斐国(現在の山梨県)にあった城で、現在の山梨県甲府市一条小山に存在しました。別名を舞鶴城とも呼ばれ、国の史跡に指定されています。
甲斐国は古くから躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心に武田家が治めていましたが、戦国時代に武田勝頼の代で滅亡します。その後は、織田家、徳川家と支配が移りました。
徳川家の支配に移った天正11年(1583)に徳川家康は平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われています。
天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は旧後北条領国の関東へ転封されます(関東移封)。甲斐は豊臣秀吉の家臣である加藤光泰、その後は浅野長政に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化しています。
江戸時代に入ると、甲府藩が設置された他、江戸幕府の天領として直轄経営されていきました。
明治時代に入ると廃藩置県により甲府城も廃城・解体され、その後、中央本線の開通により城のあった敷地内も分断され、石垣以外はほとんど手付かずの状態でした。
戦後は史跡整備のための発掘調査が行われ、城の復元整備が開始されます。これまでにいくつかの曲輪や門の整備が行われ、2003年(平成15年)に稲荷櫓が、2007年(平成19年)には分断された北側の山手渡櫓門が復元されました。
現在、城跡は「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備され、現在は市民のために開放されています。
犬山城(いぬやまじょう)
犬山城は、尾張国(現在の愛知県西部)と美濃国(現在の岐阜県)との境、木曽川南部にあり、現在の愛知県犬山市にあります。
室町時代、岩倉織田家の一族によって建てられた犬山城は、織田信長の叔父、織田信康によって現在の場所へと移築され、織田信長の城の1つとなりました。
慶長12年(1607)に平岩親吉が尾張徳川家の附家老として移って以来、平岩家の居城となり、平岩親吉はこの城で亡くなりました。
元和3年(1617)親吉が亡くなると、甥の平岩吉範が城主を6年間務め、その後は江戸時代を通して尾張徳川家の附家老である成瀬家が城主となります。
明治4年7月(1871年8月)廃藩置県により、全国の城郭が処分、破却となり犬山城も例外ではありませんでした。城は、天守を除いて大部分が移築、取り壊しとなります。
ところが天守は残され現在もその姿を留めています。ですから全国の現存している天守閣12(現存12天守)の1つであり、国宝と指定された5つの城の1つでもあります。
また成瀬家の当主であった成瀬正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守の最上階に絨毯を敷いたと伝えられ、昭和の修理で再現されました。
犬山祭り
平岩家の後に城主となった成瀬家が寛永12年(1635)に出した沙汰により、針綱神社の氏子が行粧の車山・ねり物を出すようになります。以来、全て3層からなる13輌の車山にはからくり人形があり、犬山祭の際には奉納からくり人形を披露します。
4月の第1土曜日曜に行われ、昼間は桜の下、夜は提灯に彩られた中で車山が巡行され、豪華絢爛な祭が行われます。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。