平岩親吉(1/2)天下人から絶大な信頼を得た忠臣
平岩親吉
室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた戦乱の世。この時代の終止符を打ったのが、徳川家康でした。家康は多くの家来に支えられながら、江戸幕府を興して天下人となります。この家康を支えた代表的な家来を徳川16神将と呼びますが、その中でも特に信頼された家来が、平岩親吉でした。今回は天下人から絶大な信頼を得た家来、平岩親吉に付いて見ていきたいと思います。
平岩親吉の小姓時代
平岩親吉は天文11年(1543)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)において生まれます。幼名は七之助です。
親吉の生まれた平岩家は、三河国に住んでいました。
親吉の父、親重(新左衛門)の時に松平氏に属し、松平清康・広忠に仕えます。ところが、平岩親重は京よりやってきて岡崎に滞在した武士の無礼を憤り、殺害してしまいました。そのため、坂崎村において蟄居したと言います。
さて、平岩家が仕えた松平家(後の徳川家)はこの頃、東の今川家と西の織田家とに挟まれ、弱い立場にありました。
そこで松平広忠の息子、竹千代(後の徳川家康)は駿河国(現在の静岡県東部)の人質として駿府(現在の静岡市)に送られます。
平岩親吉も竹千代の小姓として駿府に至り、幼い頃から徳川家康に仕えました。
元禄元年(1558)三河国では国衆の大規模な反乱が起きました(三河忿劇)。実質的に三河国を支配していた今川家は討伐に徳川家康を出します。家康は出陣し初陣を果たします。親吉も家康に従い、同じく初陣を果たしました。
家康、親吉ともに15歳の頃です。
ところが永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長が今川義元を討ち取った事で、徳川家康は今川家からの独立を果たします。
平岩親吉もこの間、三河国の統一や今川領であった遠江国の平定など徳川家康に従って戦い、戦功を挙げていきました。
徳川信康の譜役時代
桶狭間の戦いで今川家からの独立を果たした徳川家康は、永禄5年(1562年)織田信長と清洲同盟を結びます。
徳川家康が今川家から独立を果たし、織田家と同盟を結んでいる間、平岩親吉もまた家康に付き従い戦功を重ねていきます。幼いころから家康に仕え、武勲を立てた親吉を家康も信頼します。
そこで家康は、信頼している平岩親吉を家康の長男、松平信康の傅役に任じました。徳川家康の長男、松平信康は永禄10年(1567)5月、織田信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らし始めました。また信康は、天正元年(1573)に初陣を果たすと勇猛果敢な働きを見せ、今川領を併呑し移った徳川家康の後を受けて、三河国を治めます。信康は三河衆を束ねて、武田家と戦い父の家康によく仕えたと言われていました。
ところが天正7年(1579)の事です。
一説に、信康は織田信長により切腹を要求されたと言われています。
理由は今もって不明ですが、妻の徳姫と不仲で徳姫が父の織田信長に讒言したとも、徳川家の派閥抗争が発展して織田信長を巻き込んだとも、言われています。この事態に驚いたのが信康を補佐していた平岩親吉です。
この時、信康の傅役であった平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことで一連の問題を収めるよう求めました。しかし信康の処断を防ぐことは出来ず、その責任を感じて蟄居謹慎します。
暫らく蟄居した後、家康に許され、再び直臣として復帰しました。この復帰の際、親吉は亡き信康の家臣を自らの家臣としたそうです。
ところで信康の自害の後、親吉と同様に蟄居した者や後を追って亡くなった者がいました。後年の話です。同じく信康の傅役であった榊原清政(上野館林藩祖である榊原康政の兄)は信康の切腹に責任を感じて、親吉と同様に蟄居します。その後、家康に呼び戻されて久能城の城主となった清政は、平岩親吉と侍女が持っていた信康の遺髪を譲り受けて、江浄寺に墓を立て、信康を祀り弔いました。
甲斐の郡代と関東移封
徳川家康と同盟関係にあった織田信長は、近畿、東海を中心に勢力を拡大します。
ところが、天正10年(1582)本能寺において信長は配下の明智光秀に討たれます。その後、織田家の中で羽柴秀吉や柴田勝家の主導権争いが起きました。
その間、家康は独自の勢力拡大を図ります。旧武田家領でした信濃(現在の長野県)や甲斐(現在の山梨県)に目を付け、岡部正綱を中心とした家臣を使って、これらの領地を取り込みました(天正壬午の乱)。
家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を併呑すると、平岩親吉は家康の命令で甲斐の郡代として赴き、岡部正綱と共同で旧武田遺臣など地域の武士を鎮撫し地域の安定に尽力します。それと同時に、新たな国府として甲府城の築城を開始しました。
ところが徐々に羽柴秀吉の勢力が大きくなると、家康は秀吉に臣従します。そして天正18年(1590)関東の北条家を倒し(小田原征伐)、秀吉は家康に関東の地への転封を命じます(関東移封)。この関東への移動に際して家康は、それまで従ってきた家来にも土地を与えました。平岩親吉はそれまでの功績と忠誠から、上野国(現在の群馬県)厩橋3万3,000石を与えられました。
尾張藩附け家老と犬山藩主
慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなると、関東を領する徳川家康が台頭します。その家康に対して、豊臣家の奉行、石田三成が歯向かいます。
慶長5年(1600)徳川家康と石田三成は関ケ原で激突、徳川家康がこの戦いに勝ち、天下を治めるようになります。
関ヶ原の戦いの終わった慶長6年(1601)、平岩親吉は上野国厩橋藩から再び、甲斐国甲府に戻り6万3000石を与えられ甲府城に在城しました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。