北条氏政(3/3)最盛期を築いた4代目

北条氏政

北条氏政

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人物記
名前
北条氏政(1538年〜1590年)
出生地
神奈川県
関連する城・寺・神社
小田原城

小田原城

関係する事件

上洛を渋る氏政の姿勢に怒った秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとして、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを命じます。氏政らも迎え撃つべく臨戦態勢を整えました。翌年春、各方面から攻めてくる豊臣軍を迎え撃ちます。

当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸たちに勝利し、駿豆国境方面に布陣した豊臣方諸将に威力偵察するなど優勢でしたが、秀吉が沼津に着陣すると、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡り小田原城に籠城します。
その後、領国内の下田城、松井田城、岩槻城、八王子城、などが落城。約22万の豊臣軍には勝てず、降伏しました。氏政は切腹、享年52歳でした。

家康の婿だった氏政の息子・氏直は助命され、食い扶持が与えられていました。しかし後に死亡、後北条氏の系譜は氏規が継承。江戸時代には氏規の子・北条氏盛が河内狭山藩主となり、明治維新まで存続しています。

逸話

汁かけ飯の話
氏政の有名な逸話として、二度汁かけの逸話があります。
ある日、食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったためもう一度汁をかけ足しました。
見ていた父の氏康は「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れぬとは。北条家もわしの代で終わりか」とため息をついたと伝わっています。
これは、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない」との意味で、父の氏康が息子の氏政により一層の精進を促したとも、氏政がそれほどの技量を持っていなかったからとも言われています。
制札にまつわる逸話
ある僧侶が、氏政が当主となってから久方ぶりに小田原に立ち寄り、制札(民に知らせる禁止事項や、法律など書かれた立て札)を見ていました。
制札を読んだ僧侶は、「北条も先が長くないだろう」と不吉な言葉を口にします。
驚いた町奉行が理由を聞いてみると「先代の氏康様は、制札に5カ条しか書かなかった。しかし、現当主の氏政様は30カ条もある。これは領民をしっかり掌握できていない証拠だ」と答えたと言われています。

北条氏政 ゆかりの地

北条氏政の墓所
小田原市にある伝心庵には、小田原征伐の責任を取って秀吉に切腹を命じられた北条氏政と弟の氏照の墓所があります。
後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいますが、江戸時代になり、稲葉家が小田原藩の藩主になると追福のため修復されました。しかし、またもや関東大震災で埋没してしまい不明となったため、翌年地元有志によって復興されました。
墓地内には、五輪塔・笠塔婆型墓碑・石灯籠のほか、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。
小田原北條五代祭り
小田原城址公園・市街地で毎年5月に行われる祭りです。
北條五代歴代城主墓前供養や武者行列パレードが行われ、小田原城主であった北条氏を偲ぶ祭りとなっています。
街中では、北條鉄砲衆による発砲演技や風魔忍者のパフォーマンスなども行われ、小田原市最大の祭りとして市民に愛されています。

北条氏政と小田原城

北条氏は初代である北条早雲以来、5代にわたって小田原城を拠点としてきました。
3代目当主の北条氏康の時代には難攻不落で知られ、無敵の城として上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えたと言われています。小田原攻めで豊臣軍が攻めてきた時には、対抗するため広大な外郭を作っており、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだ壮大な外郭でした。

江戸時代には小田原藩の藩庁が置かれており、現在では城跡は国の史跡に指定されています。城好きの歴史ファンが訪れる城として人気があり、市民にも親しまれているお城です。また、日本100名城にも指定されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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