北条氏政(2/3)最盛期を築いた4代目
北条氏政
信長は滝川一益を上野厩橋城に送り込んで関東管領にし、上野西部および信濃の一部を与えて関東統治を考えていました。
北条氏は嫡男の氏直に織田家から妻を娶ることを条件に、織田家の分国として関東統治を願い出ます。しかし、信長は北条氏に好意的ではなく、逆に刺激するようなことばかりで縁談も円滑には進まなかったと言われています。
しかし、6月2日に信長・信忠親子は本能寺の変で明智光秀に襲われ自害。織田家の家臣団も大混乱に陥り、この混乱に乗じた氏政は滝川一益を関東から追い払うことに成功します。
その後、甲斐の若神子で嫡男の北条氏直と家康は対立しましたが(若神子の戦い)、信濃では真田昌幸が離反。甲斐でも北条氏忠(氏政の弟)・北条氏勝(氏政の甥)が、黒駒で徳川家康配下の鳥居元忠らに敗北して、甲斐の北条領は郡内地方の領有だけになってしまうなど、情勢は不利となります。このため嫡男・氏直と家康の娘・督姫を婚姻させて和睦しました。
領土をさらに拡大、最盛期に到達
領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意するも、信濃の佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は北条氏にとって不利な講和条件でした。しかも家康についた真田昌幸が、後に上野の沼田城を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城で徳川家康・北条氏政と対立します。これらの懸案が後の沼田問題・名胡桃事件に繋がっていきます。
天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去し、氏政は官途補任で権力掌握。関東の身分秩序の頂点に立ちました。
また武蔵の江戸地域、岩付領の握り、利根川水系・常陸川水系の支配を確保して流通・交通体系を支配しました。関東の反北条の武将たちは、北条氏に従うか抗戦するか二者択一を迫られます。
天正13年(1585)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと組んで下野侵攻を開始。下野の南半分を支配下に置きました。
また常陸南部の江戸崎城の土岐氏や牛久城の岡見氏を支援、常陸南部にも影響を及ぼします。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部まで約240万石にまで達して、歴代の北条氏投手の中でも最盛期を築き上げました。
小田原征伐、そして切腹へ
このころ天下人は織田信長亡き後、豊臣秀吉となり日本統一に向けて着々と進んでいきます。
天正16年(1588)、北条氏政・氏直親子は秀吉から京都・聚楽第行幸への列席を求められますが、氏政は拒否します。京では北条討伐のうわさが流れ、北条氏も臨戦体制となります。
しかし、徳川家康の説得を受けて8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、この時の対立は回避されました。
天正17年(1589)2月、板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請します。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡されました。
しかし上洛の時期について、氏政は天正18年(1590)の春~夏頃の上洛を申し入れますが、秀吉は拒否し、再び関係が悪化し始めてしまいます。
不穏な状況の中、10月には五男の氏邦の家臣である猪俣邦憲によって名胡桃城奪取事件が発生。秀吉は徳川家康、上杉景勝らを上洛させ、諸大名に天正18年(1590)春の北条氏追討の出陣用意を命じました。また、秀吉は津田盛月・富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰し即上洛して秀吉に頭を下げるよう伝えました。
これに対し、氏直は「氏政抑留か国替えの惑説があり上洛できない」「家康が臣従した時、朝日姫と婚姻し大政所を人質として上洛する厚遇を受けたことに対し、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差」を挙げて、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請。名胡桃城奪取事件についても弁明しますが受け入れられませんでした。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。