松平忠吉(1/2)関ヶ原の火蓋を切った大名

松平忠吉

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人物記
名前
松平忠吉(1580年〜1607年)
出生地
静岡県
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清洲城

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室町時代後期、戦国時代とも呼ばれた戦乱の世は徳川家によって終わります。この時代の終止符を打った戦いがあの「関ケ原の戦い」です。東西に分かれて10万人以上が対峙したこの戦い、最初の発砲を行ったのが松平忠吉です。後に天下人になる徳川家康の4男として浜松に生まれ、尾張国清洲城の藩主となった忠吉。この松平忠吉がどういう人物であったのか、今回は見ていきたいと思います。

松平忠吉の誕生

松平忠吉は、天正8年(1580)三河国の大名でした徳川家康の4男として遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)において生まれました。幼名を福松丸と言い、母はお愛の方(西郷局)で、後の江戸幕府2代将軍徳川秀忠と同母兄弟となります。

忠吉が生まれた翌年、天正9年(1581)の事です。徳川家の一族であった東条松平家当主の松平家忠が病死しました。
東条松平家は徳川家康の祖父松平清康の祖父松平長親(徳川家康からみると高祖父)の三男松平義春を祖とします。
三河国幡豆郡横須賀村東条(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった東条城を居城としたことから東条松平家と呼ばれるようになりました。この東条松平家の祖、松平義春は徳川家康の祖父清康や父広忠の困難な時代も支えた功績の大きい家でした。

そこで父の家康は、当主のいなくなった東条松平家の家督を忠吉に継がせます。忠吉は生まれて間もなく三河東条城1万石を領するようになりました。
さらに翌年の天正10年(1582)、甲斐の武田氏が織田家、徳川家により攻められ滅亡すると、忠吉は三河国東条から新たな領国となった駿河沼津城(現在の静岡県沼津市)に転封されます。

関東移封と忍城

松平忠吉の父、徳川家康は本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉に従います。
豊臣秀吉は天正18年(1590)関東の北条家を討伐(小田原征伐)。
徳川家康は秀吉の麾下として関東に侵攻しましたが、北条家が降伏後、それまでの領地であった東海地方を召し上げられ、北条家の旧領を宛がわれます。

具体的には、三河国(現在の愛知県東部)、駿河国、遠江国(現在の静岡県)、甲斐国(現在の山梨県)、信濃国(現在の長野県)150万国を召し上げられ、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部という関東一円250万石を与えられました。

松平忠吉は家康の関東移封に伴い、文禄元年(1592年)に駿河国沼津城から武蔵国埼玉郡忍城主10万石を与えられました。
忍城は北条家に属していた成田氏の居城でしたが、小田原征伐の際、成田氏の一族であった成田長親を中心に石田三成を中心とした豊臣軍の攻撃に耐え、小田原征伐の中で唯一最後まで守り抜かれた城でした。

成田氏はその後、当主の成田氏長が独立した大名となりそれに従う者、新しく領主となった松平忠吉に仕官するもの、武士を辞めて農業に従事する者に分かれます。攻城戦で城を守り抜いた成田長親の息子は、松平忠吉に仕官した為、長親は後年、息子に従い尾張国に住むようになりました。こうして、忍城城主となった松平忠吉は成長し元服します。

初陣の関ヶ原の戦い

文禄元年(1593)松平忠吉は婚姻を結びます。相手は徳川四天王の一人で上野国箕輪12万石の藩主、井伊直政の娘政子です。こうして忍城主として元服し、婚姻も結んだ忠吉でしたが、父の徳川家康に政治的な変化がありました。

慶長3年(1598)家康が属していた豊臣秀吉が亡くなります。
秀吉の死後、主導権を握る家康とそれに反対する石田三成などのグループと対立が先鋭化します。
慶長5年(1600)上杉景勝に謀反の疑いありと、家康を中心とした討伐軍が東へ向かいます。この時、松平忠吉は初めて軍を率いる事と成りました。
家康たちが関東に着くころ、大坂城で石田三成が挙兵します。
家康は率いていた軍の内、忠吉を総大将として豊臣家子飼いの家臣たちを中心に東海道を上らせます。その後、家康自身も東海道を上り石田三成と関ケ原で対峙しました。

関ヶ原の戦い当日、その日の先陣は福島正則が務める事になっていましたが、舅の井伊直政が忠吉を連れて偵察に出ます。一説には、家康の意を汲んだ直政が初陣の忠吉に手柄を挙げさせようと先陣の抜け駆けを図ったとも言われます。
途中、福島家の可児才蔵に見咎められますがそこを抜け、関ヶ原に出ると鉄砲を撃ち掛けました。こうして日本でも有数の大規模な会戦、関ヶ原の戦いが始まります。
忠吉は、関ヶ原の戦いの火蓋を切る事で初陣の手柄を挙げます。

戦いは、昼過ぎには家康率いる東軍の優勢となり、石田三成に属していた西軍の追撃戦となりました。
戦場から離脱する島津家を追う井伊直政と松平忠吉は島津豊久に行く手を遮られ、忠吉は頭に傷を負い、井伊直政も足を鉄砲で撃たれ落馬しながらも豊久を討ち取るなど、初陣にも拘わらず大功を挙げました。

清州藩への転封

関ヶ原の戦いで功績を認められた松平忠吉は、安芸広島と備後鞆(現在の広島県)に転封となった福島正則の後を受けて、尾張国清洲(現在の愛知県西部)および美濃国(現在の岐阜県)52万石を与えられ、忍城より移ります。
 関ケ原の戦いで勇猛果敢な姿を見せた忠吉でしたが、清洲に移ると教養も身に付けようとしました。かつて本願寺の坊官で関ヶ原の戦いの後、西本願寺に属していた下間 仲孝(しもつま なかたか)は猿楽を極めていましたが、この仲孝より猿楽の秘伝書『童舞抄』を受けるなど、文武両道を目指しています。

朝廷の位階も、慶長10年(1605)には従三位左近衛中将に、翌慶長11年(1606)には薩摩守に遷任されるなど官位も順調に受けていました。
しかし関ヶ原の戦いで傷を受けた事が災いしたのか、慶長9年(1604)徐々に病に侵されるようになりました。

松平忠吉の終焉

尾張国清洲城主となった松平忠吉でしたが、慶長9年(1604)病に侵されます。そこで闘病の為、但馬国に湯治へ出かけています。
慶長10年(1605)には腫物を患い、一時は危篤状態に陥りますが投薬により蘇生しました。
しかし病がなかなか癒えず、慶長11年(1606)尾張国知多郡にも湯治へ出かけるなど頻繁に療養を努めました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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