井伊直政(2/2)井伊の赤鬼
井伊直政
関ケ原の戦い当日の朝、直政は家康の四男で娘婿でもある松平忠吉とともに鉄砲隊を引き連れて、偵察に出ました。この時、朝8時でしたが霧が残っていました。
しかし、この霧の向こう側にある石田側の陣に対して鉄砲を撃ち掛けます。
この鉄砲を契機に戦いは始まりました。戦いは昼過ぎには、徳川家優位に進みます。
井伊直政が率いる井伊家は、島津義弘率いる島津家を追撃しました。
井伊家は島津義弘の甥、島津豊久を討ち取り、更に島津義弘に迫りましたが、直政は島津家の柏木源藤に足を狙撃され、落馬してしまいます。
しかし徳川家は関ヶ原の戦いに勝つことにより、天下を牛耳るようになりました。
彦根城と、その終焉へ
関ヶ原の戦いで負傷したにも関わらず、井伊直政は関ヶ原の後処理を担当。
石田三成の側に付いた大名の処分や助命を行い、これらの功績から上野国高崎から石田三成の所領、近江国佐和山(現在の佐賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に叙任されました。
徳川家康が、井伊直政を佐和山に転封したのは、万が一の時には京を守るため、西日本の大名が反抗してきた場合の防御とするためと考えられています。
ところが慶長7年(1602)、井伊直政は琵琶湖に近い彦根城を築城中に死去しました。
享年42。遺体は荼毘に付されると、長松院が建てられ祀られました。
長男の井伊直勝は病弱で井伊家の家臣団をまとめ切れなかったため、上野国の飛び地を分家として立て、次男の井伊直孝が家康により藩主として立てられます。
これ以降、井伊家は彦根藩を統治して明治まで続きました。
井伊直政とその所縁
- 彦根駅前の井伊直政像と顕彰式
- JR彦根駅前のロータリーには、井伊直政の銅像が立っています。
直政は関ヶ原の戦いの後、高崎城から現在の彦根市に移り、彦根藩の礎を築きました。江戸時代が終わるまで井伊家はこの地を統治。
滋賀県彦根市では、直政が彦根市の基礎を築いた事をたたえ、毎年秋にこの場所で「井伊直政公顕彰式」というイベントを行っています。 - 井伊神社
- 天保13年(1842)、彦根藩12代藩主であった井伊直亮が、遠江国引佐郡(現在の静岡県)井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を作り、龍潭寺の参道に井伊八幡宮として祀ったのが始まりとされ、井伊直政、その子の井伊直孝もまつわれています。
現在では市指定文化財として指定されていますが、風化による痛みにより拝観はできません。 - 彦根城桜まつり
- 井伊家が治めた彦根城。現在では市民や観光客の憩いの場所となっています。この彦根城では毎年4月、「彦根城桜まつり」を開催しています。
約1200本の桜が城を中心に咲き、期間中は夜桜のライトアップも行われます。地域を支配する中心であった城が、現在では市民の憩いの場所として親しまれているのです。 - ひこねの城まつり
- 井伊家は彦根を代々治め、明治時代まで続きました。
この彦根藩の13代藩主、井伊直弼の生誕を記念して毎年秋になると、彦根市で最大のお祭り「小江戸彦根の城まつり」が行われます。
彦根城を中心に井伊直弼公行列や子供大名行列、井伊の赤鬼家臣団行列、彦根町火消し列など豪華絢爛な時代絵巻を執り行います。
井伊直政と高崎城(たかさきじょう)
関東の北条家が天正18年(1590)、豊臣秀吉に攻められ降伏しました。
この戦いに参加していた徳川家康は東海地方から関東へ領地替えを命じられます。
関東に入った徳川家康は、関東の各地に配下の家来を配置していきますが、井伊直政に対しては上野国群馬郡(現在の群馬県高崎市)の12万石を与えます。
上野国にはすでに箕輪城があり井伊直政も入城しましたが、慶長2年(1597)家康の命により、平城の高崎城を築城しました。更に、箕輪城から高崎城へ城下町を移します。
関ヶ原の戦い後、井伊直政は彦根に転封され諏訪家がその後に入ります。そこから譜代大名が度々入れ替わって入り、明治時代を迎えました。
明治時代に入ると、高崎城は軍事施設へと変わり、城にあった建物は移築、ないし破却されていきました。
現在は、市の重要文化財に登録されている東門が移築復元されています。また、三の丸の土塁や水堀は現在の街並みにも生かされています。
城跡は、高崎城址公園として整備され市民の憩いの場所として親しまれています。
井伊直政と彦根城(ひこねじょう)
井伊直政は関ヶ原の戦いによる功績により、石田三成が治めていた佐和山城を中心に近江国(現在の滋賀県)北部をあてがわれました。
直政は当初、佐和山城に入りましたが、古い造りの山城であることや、徳川家に敵対していた石田三成の城であった事を嫌がり城の移転を考えます。
ところが直政は関ケ原の戦いで撃たれた傷が癒えず慶長8年(1603)亡くなってしまいました。
直政の子、井伊直継は幼かったので直政の家来たちが相談し、直政の想いを継いで琵琶湖に面した彦根城の築城を開始します。
徳川家康はこの築城に、日本全国から大名を動員し慶長11年(1606)までに工事が完了します。彦根城は江戸時代を通して、彦根藩の藩庁として、また西日本の大名の監視として機能しました。
明治時代に入ると、廃城令により各地の城が破却されましたが、彦根城は軍事施設として残されます。
現在、天守閣や櫓、多聞櫓は国宝として、城跡は特別史跡として、また琵琶湖国定公園第1種特別地域に指定されています。
国宝に指定された天守閣ですが、現存している12城の天守閣の1つ、国宝に指定されている5つの天守閣(松江城、姫路城、彦根城、松本城、犬山城)の1つです。
城内には開国記念館や彦根城博物館が、庭園の玄宮園などがあります。また観光客をもてなすため、彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が毎日城内に登場します。
時代劇の撮影所が多い京都から近いこともあって、姫路城、彦根城は時代劇の舞台として親しまれています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。