前田利家(2/2)槍の又左
前田利家
天正19年(1591)、豊臣秀吉が催した朝鮮の役が始まります。前田利家は九州の名護屋城にて指揮をとるなどを行っています。文禄3年(1594)、従三位に叙せられ権中納言に任じられるなど、豊臣家の中でも重要な存在として序列も引き上げられました。
慶長3年(1598)になると、豊臣秀吉は健康の衰えを見せ始めるようになります。ところが前田利家も同じように健康の衰えを見せ嫡男の利長に家督を譲り隠居します。
ですが隠居は許されず、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の長に命じられます。
その秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を頼み没しました。
それ以降、秀頼の傅役として大坂城に入り、豊臣家の運営を行いますが、翌慶長4年(1599)、体調が悪化し病の床につきます。
結局、前田利家は大坂の自邸で病没しました。享年62(満60歳没)。 法名は高徳院殿桃雲浄見大居士。
この後、利家の亡くなった前田家は徳川家に従い、加賀100万石の前田家として明治時代まで続いていきました。
前田利家とその所縁
- 金沢百万石まつり
- 加賀藩を作った前田利家が天正11年(1583)6月、金沢城に入った事を記念して行われるお祭りです。入城の行列を再現した行列の他、各種イベントが行われ、毎年6月上旬の土曜日を中心に3日の間、行われます。
- 前田利家像(尾山公園前)
- 加賀藩を作った前田利家とその妻であるお松の方を祀る尾山神社。その尾山神社の庭園には馬に乗った前田利家像が凛々しく経っています。
- 前田利家像(金沢城)
- 加賀藩を作った前田利家。その前田家が広大な領地を治める為に居城としたのが、金沢城です。その金沢城公園の中には在りし日の前田利家を偲んで像が建てられています。
- 前田利家像(名古屋市中川区)
- 名古屋臨海高速鉄道あおなみ線荒子駅の駅前にある像です。前田家は織田家に仕えると、荒子に城を建て領地を治めます。利家はこの城で生まれ、妻となる松と出会います。像は槍の又左と呼ばれた若い頃の利家と松の像です。
前田家と富山城(とやまじょう)
富山城は、越中国新川郡富山(現在の富山県富山市丸の内)にありました。
松川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとります。
富山は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の交通の要衝にあり、天文12年(1543)神保氏により建てられたのが最初と言われます。
織田信長が北陸に侵攻すると、富山城主となったのが、佐々成政です。成政は、拠点を富山城に置き、大規模な改修を行い近代城郭の一部を築きます。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と敵対した成政は、天正13年(1585)秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却されました。
同年、前田家は恩賞でこの地域を与えられと、利家の長男前田利長を守山城に入れました。
利長は、前田利家が亡くなり家督を受け継ぐと、金沢城に入城します。
関ケ原の戦いで東軍につき、加賀藩が興ると利長は所領の中の富山城を再建、大改修を行い金沢城から移り住み隠居城とします。
ところが慶長14年(1609)に起こった火事により建物の主要部をことごとく焼失します。
万治4年(1661)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後は明治を迎えるまで、前田家の分家、越中前田家の居城とされました。
現在、富山城は富山城址公園となり、本丸と西の丸の一部が残っています。公園の中には美術館や遊覧船があり県民に四季の憩いを提供しています。
前田家と高岡城(たかおかじょう)
高岡城は、越中国射水郡(現在の富山県高岡市)にあった日本の城です。
慶長10年(1605)、富山城に隠居した加賀藩主の前田利長でしたが、4年後の慶長14年(1609)富山城下より発生した火災は類焼により城内の建築物の大半を焼失しました。利長は魚津城に移り、幕府に火災の報告と、関野に築城の許可を貰います。
利長は「関野」から「高岡」と地名を改め、未だ完成されていない高岡城に入城しました。
ところが慶長19年(1614)、利長は死去(享年53)しましたので、隠居城として使われたのはごく短い間だけでした。その翌年の元和元年(1615)には一国一城令により、廃城となりました。
廃城となった高岡城の跡には、高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の藏や設備などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されたまま明治を迎えました。
2006年、高岡城は日本100名城のひとつに選ばれます。現在は高岡古城公園として整備され、市民の憩いの場となっています。春はソメイヨシノを中心に、コシノヒガン、エドヒガン、ヤマザクラなど18種約1800本の桜が咲き、日本さくら名所100選に選定されています。
また、堀がめぐらされており遊覧船が運行されています。
前田利家と金沢城(かなざわじょう)
金沢城は、加賀国石川郡(現在の石川県)にあった加賀藩前田家の居城です。
室町時代、この場所には加賀一向一揆の拠点として「尾山御坊」がありました。この寺は、一揆の本拠として位置づけられたため、石垣を設け、櫓を築いた城郭に近いものでした。
この尾山御坊は、織田信長が行った北陸の侵攻により堕ちます。その後、加賀国を治めた佐久間盛政によって、跡地に城が築かれました。
柴田勝家に属していた佐久間盛政が賤ケ岳の戦いで敗死すると、前田利家がこの地に入り統治します。利家は当初、佐久間盛政が建てた城を「尾山城」と呼びましたが普及せず、元々の地名であった「金沢」が使われるようになり、金沢城と呼ばれました。
金沢城は文禄元年(1592)から改修工事を始め、規模を拡張し5重の天守や櫓を建て並べました。また現在、金沢城に隣接する兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、代々の藩主が改修し現在の形に至った大名庭園です。
明治以降は、軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去されました。現在の城址は国の史跡に指定されており、門などが復元され金沢城公園として整備されています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。