前田利家(1/2)槍の又左
前田利家
室町時代後期、中国の歴史になぞらえ戦国と呼ばれた時代。その戦国時代が終焉し、平和な時代が訪れたのが江戸時代です。この江戸時代を通じ、君臨した徳川家に次いで広い領地を治めていたのだが前田家になります。この加賀100万石の前田家の礎を築いたのは、前田利家でした。尾張国に生まれた利家が、いかに100万石の太守の座を手にしたのでしょうか。今回は前田利家についてご紹介します。
利家誕生
前田利家は、天文7年(1539)尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)を領していた前田利昌の四男として生まれます。幼名は犬千代と言いました。
はじめ前田家は、織田家に仕えていた林秀貞の家臣でした。
利家は天文20年(1551年)ごろ、織田信長に小姓として仕えます。利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好を好んだ傾奇者だったと言われます。
利家が仕えていた織田信長は、尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の織田信友と争います。天文21年(1552)、萱津の戦いが起こると、利家は初陣として参加し、首級ひとつを挙げる功を立てました。
利家は当時としては大柄な180㎝を越える長身と端正な顔立ちでしたが、約6mの派手な槍を持ち歩いて、派手な格好で戦さに出ていたそうです。
その後、元服して前田又左衞門利家(又四郎、孫四郎とも)と名乗りました。
信長直属の家臣として
元服した後の前田利家は、織田信長の下で大いに働き「槍の又左」と呼ばれました。
信長が弟の織田信勝と争った稲生の戦いでは、右目下を矢で射抜かれながらも手柄を上げていない為、顔に刺さった矢を抜く事もせず相手を倒すという功績を上げます。
永禄元年(1558)頃、織田信長は手回りの馬廻り衆のうち優秀な者を抜擢し、赤と黒の母衣衆を新設します。利家は、赤母衣衆の筆頭に選ばれ多くの家臣を預けられました。また、まつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・幸を儲けました。
そんな出世をしていた利家でしたが永禄2年(1559)、織田信長に芸能をもって仕えていた拾阿弥と諍いを起こし、城の中で殺してしまいます。拾阿弥は普段から信長の家臣を侮る事が多く、そこから争いが起こったと言われています。
織田家の家臣を殺した事で利家の死罪は避けられませんでしたが、信長の家老である柴田勝家や森可成ら取り成しで、罪を減じられ死罪は許されました。
こうして前田利家は、織田家を離れる事になります。永禄3年(1560)、利家は織田家から離れていたにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加し功績を立てましたが、帰参は許されません。
永禄4年(1561)、利家は森部の戦いでも無断参戦します。ここで斎藤家のうちでも怪力の豪傑で知られる重臣を討ち取り、手柄を立てました。この功績により罪が許され、織田家の帰参が許されました。
この浪人中に父である前田利昌が死去し、前田家は兄の前田利久が継いでいましたが、永禄12年(1569)織田信長から突如、兄の利久に代わって前田家の家督を継ぐように命じられました。理由は利久に実子がなく、病弱のため出仕が十分ではなかった為と言われています。
以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、各地を転戦しました。
柴田勝家の与力として北陸へ
前田利家は、天正2年(1574)には柴田勝家の与力となり、越前を占有していた一向一揆の鎮圧に従事しました。
翌年には越前国は平定され、佐々成政、不破光治を含めた3人に対して共同で府中10万石を与えられました。この柴田勝家の与力として貢献した三人に対して「府中三人衆」と呼ばれるようになります。
越前国を平定すると、前田利家は柴田勝家の与力として上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事します。その一方で、織田信長の命により北陸以外の地域も転戦していて、信長の直属の関係は続きました。
天正9年(1581)、織田信長より能登国を与えられ、七尾城の城主と共に大名になりました。翌天正十年(1582)町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城しました。
賤ケ岳の戦いから大大名へ
天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀により討たれました。この時、前田利家は柴田勝家に従い、上杉家の籠る越中国(現在の富山県)魚津城を攻略中でした。
同じ年、織田信長亡き後の織田家に関して話し合われた清洲会議で、羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。利家は勝家の与力であったことから勝家に与することになりました。
その一方で、羽柴秀吉とも親交がありました。尾張国で住んでいた頃は隣同士、安土城に屋敷を構えた時には向かい同士と、家族ぐるみで親交がありました。そのために、利家は柴田勝家と羽柴秀吉との間で苦悩する事になります。
翌天正11年(1583)、柴田勝家は羽柴秀吉と戦う事になります。賤ヶ岳の戦いです。
この時、利家は柴田軍として5,000人ほどの兵を率いて布陣しました。ところが戦うことなく戦場を離脱しました。利家は早くから秀吉からの誘いに応じていたからではないかと推測されています。利家が合戦の最中に撤退したことが、羽柴軍の勝利を決定づけました。
利家は越前府中城(現在の福井県武生市)に籠りましたが、秀吉からの使者として訪れた堀秀政の勧告に従い利家は降伏します。
賤ケ岳の戦いが終わると元々領していた能登国を安堵され、更に加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移しました。
前田利家は柴田勝家に勝った羽柴秀吉に従う事になりました。
その羽柴秀吉は天正12年(1584)、東海地方を領していた徳川家康と争う事になります。その徳川家康に呼応した越中国の佐々成政が加賀・能登国に侵攻してきました。
佐々成政は能登国の末森城に侵攻してきましたが、前田家はこれを撃退します。利家は、北陸から動くことなく地域の安定を図りました。
同じ年、徳川家康との戦いが膠着状態になった羽柴秀吉は、前田利家を先陣にした大軍を催し、越中国(現在の富山県)の佐々成政を攻めます。攻められた佐々成政は降伏しました。
この功績により前田利家の嫡男、前田利長は越中国の半分以上を領地として与えられ、前田家は能登国、加賀国、越中国を中心に北陸に勢力を築きました。
また秀吉から諸大名の折衝としての役割を求められ、槍の又左のような戦いでの能力から大名をまとめる能力を求められるようになりました。
豊臣秀吉と利家、そして終焉へ
天正14年(1586)、前田利家は筑前守、近衛権少将に任じられています。更に天正18年(1590)には参議にも任じられています。
その間に、北陸以外でも東北の伊達政宗に対して豊臣家に臣従するよう交渉を行うなど、豊臣家を支える大名の一人として活動しました。
同じ年、関東の北条家を制圧する小田原征伐が行われます。利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略し北条家は降伏しました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。