真田信之(2/2)真田家を守った長男

真田信之

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人物記
名前
真田信之(1566年〜1658年)
出生地
長野県
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上田城

上田城

沼田城

沼田城

松代城

松代城

関係する事件

真田家は父と弟が西軍に、兄が東軍につくことになりました。信之は徳川家の主力を率いていた徳川秀忠軍に属して上田城攻めに参加します(第二次上田合戦)。戦いの前に本多忠勝の息子で信之の義弟(妻小松姫の弟)である本多忠政と信之は父昌幸の説得に赴きましたが、結局失敗に終わったとされます。

信幸は、信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられましたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟信繁も信之の意を汲み開城に応じます。信之は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退しました。
徳川家康と石田三成との戦いは、徳川家康が勝利しました。しかし、徳川秀忠の本隊は真田昌幸の足止めにあい、家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参した為、本戦には参加できませんでした。

戦いに勝った信之は、父昌幸の所領を受け、上田城を受け継ぎます。反対に戦いに負けた父昌幸と弟信繁に対しては厳しい処置が待っていました。信之は父と弟の助命嘆願を求め、義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となりました。
その後、信之は父が亡くなった折に葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出ましたが、許されませんでした。

沼田藩

真田信之は、関ヶ原の戦いの後、真田昌幸の旧領に加え3万石を加増されて上田藩主となりました。徳川秀忠が攻め、昌幸が守り抜いた上田城は破却を命じられます。信之は引き続き沼田城を本拠とします。
信之が上田領を継いだ頃、戦いの戦禍や相次いだ浅間山噴火で領内は荒廃しており、その後も気候不順など天災が相次ぎました。信之は上田城の町を整備し、堰や用水を整え、苦しむ領民に対して年貢の減免を行うなど、様々な政策を行って領内の再建に苦闘します。

慶長19年(1614年)から始まった徳川家と豊臣家の戦い、大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣しました。元和8年(1622)、信濃国松代に加増移封されます。
明暦元年(1656)、長男の真田信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が死去した為、次男の信政に信濃国松代藩の家督を譲って隠居します。しかし万治元年(1658)、次男の信政も死去しました。

ここから真田家は後継者争いが起こります。亡くなった次男の信政の子、幸道が藩を継いだことに対して、長男の血統である信利が次男の血統である幸道の家督相続に異議を唱え幕府に訴える事態となりました。幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となります。最終的には次男の幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執ります。長安の系統である信利は沼田藩として独立しました。

こうして後継者問題が一段落すると真田信之は万治元年10月に死去しました。享年93。
墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されています。また、真田家の菩提寺真田山長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられています。

真田信之の人物像

真田信之は、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘である小松姫を娶り、徳川家に尽くしました。反対に徳川家と戦った上田合戦や大坂の陣を通して、父や弟である真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は徳川家に反抗します。真田家の中でも度々、昌幸や信繁の側に参加した者もいた為、徳川家から睨まれ、より献身的に幕府に尽くしました。

こうして江戸時代に入り藩政を司った信之は93歳と長命でした。しかも死の直前まで藩主や後見役として真田家の為に働きます。そんな信之に徳川家康の子で紀州徳川家の藩祖徳川頼宣は信之のことを尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたといわれます。後に信之は頼宣の子の具足親になったとされる逸話が残っている程、信之と紀州徳川家とは親密でした。

そして信之が死去した際は、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したといわれます。信之の近くに仕えていた家臣から領民である百姓までもが大変悲しみ、百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされました。こうして家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられています。

信之の辞世の句は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」です。甲斐の武田勝頼に仕え、織田家や上杉家、北条家を周囲に囲まれて戦乱の世を過ごし、豊臣政権を経て、徳川家を長とした江戸時代に入ると平和な時代の中で領国運営に苦労した、そんな移り変わりの激しい人生を真田信之は歩みました。

真田信之と所縁の地

真田家と沼田城
沼田城は、上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)にありました。
天正8年(1580)、武田家に仕えていた真田昌幸が関東の北条氏に属していた沼田城を調略で落とします。その後、昌幸の手から一旦離れますが、天正18年(1590)北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされると、真田信之の支配となり、江戸時代に入っても真田領とされました。
延宝9年(1681)、幕府の天領となり真田家から離れました。
沼田城は1976年、沼田市の指定史跡とされています。 現存建物として城門が群馬県川場村に1棟、川場村以外に3棟ほどが移築されています。 1634年に真田信吉が鋳造させた「城鐘」が現存し、群馬県指定重要文化財に指定され、2019年にテラス沼田内に開館した沼田歴史資料館で展示されています。
真田家と松代藩
松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡(現在の長野県長野市松代町松代)にありました。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領しています。
元和8年(1622)、信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、幕末までこの地は真田家の所領として続きます。
現在では一部の当時の建物が移築され、松代城址公園となりました。その公園に2004年太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されます。2006年に日本100名城に選定されました。
また1964年、本丸を中心とした城址の一部が長野県の史跡に指定されています。1981年(昭和56年)本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定されました。
長国寺 真田信之の墓
松代市の長国寺は、真田の里にある長谷寺の住職を開山として、真田信之が上田城から松代城に移った1622年に建立された寺院となり、真田家の菩提寺になっている所です。
真田信之の霊屋、真田幸村・真田大助の供養碑、歴代松代藩主の墓所、真田幸隆・真田昌幸・真田信綱の供養碑など、真田家所縁の場所となっています。
真田信之と小松姫像
真田信之と小松姫の像は沼田公園内、旧本丸跡あたりにあります。沼田公園は、真田信之が城主であった沼田城のあったところ。真田家は沼田とも縁があります。

真田家と上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市にある日本の城です。真田信之の父、真田昌幸が天正11年(1583)築城した平城でした。なお、現在残っている櫓などは江戸時代初期の寛永年間に、仙谷家により再建されたものです。

関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠を足止めする戦いの中心地となり、翌慶長6年(1601)勝った徳川家により破却されました。
上田の所領を引き継いだ信之は、上田城が破却された為、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて藩庁とし、上野国沼田城を本城とすることで統治を行います。この頃から城下町の整備も行われるようになりました。

真田信之は、元和8年(1622)に信濃国松代へ転封されます。真田家が転封された上田には、小諸を領していた仙石家が転封されます。転封してきた仙石家は、破却された上田城の再建を幕府に申請しました。仙石家によって再建された上田城は、本丸には櫓7棟を建造、櫓門は2棟を建てられ、それらを繋ぐ塀が築かれました。現在残っている本丸の3棟の櫓など建物の外壁は、煤と柿渋の特性である防水した板を用いた為、黒い外観となっています。

明治になると、天守閣などは破却され、建築物も城外へと移築が行われました。城内に残ったのは石垣と西側の櫓が1棟残るのみでした。昭和に入ると、移築され城外にあった本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成に櫓門や塀などが木造復元されています。

現在の上田城は、上田城跡を中核とした上田城跡公園となっており、樹齢100年といわれるケヤキ並木をはじめ、約千本の桜など市民の憩いの場所となっています。
本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の必勝祈願のスポットとして賑わっています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.04