徳川家治田沼意次を重用し、趣味に生きた将軍は毒殺されたのか?

徳川家治
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江戸時代中期に活躍した政治家・田沼意次。賄賂政治で有名ですが、商業を奨励し貨幣経済が発展したことで、宝暦・天明文化が花開きました。
そんな田沼時代の将軍が第10代将軍の徳川家治です。田沼意次に政治を任せて趣味に没頭したイメージがありますが、一方で愛妻家で倹約に努め、文武両道で才能ある人物だったとも言われています。今回はそんな徳川家治について解説します。
徳川家重の長男として生まれる
徳川家治は元文2年(1737年)5月22日、第9代将軍である徳川家重の長男として江戸城の西の丸で生まれました。母は側室のお幸の方(至心院)で、幼名は徳川家康と同じ「竹千代」で、家光など将軍を継いだ子どもの幼名に多くつけられた名前です。家治は幼いころ聡明な人物として知られており、祖父の徳川吉宗からの期待を受けてかわいがられていました。
吉宗は当時、大御所として君臨していました。これは第9代将軍の徳川家重が病弱で、生まれながらに障がいがあり、言葉が不明瞭だったことと関係しています。一説によれば脳性まひだったようで、その言葉は側近の大岡忠光しか判別できなかったのだとか。また、遺骨の調査や頻尿だったことなどから実は女性だったのではという説もあります。
「家重は頼りにならない」と考えた吉宗。その分、吉宗の期待は家治にかかりました。『徳川実紀』によれば、吉宗は直接帝王学や武術などの英才教育を施したそうです。家治も吉宗の期待に応え、学問に優れ、弓術や馬術、砲術などもこなす文武両道の青年として育ちました。家治は吉宗を慕っており、吉宗の死の際は深く悲しみました。
さらに食べ物については変わったものが出されると「これは先々代様(=吉宗)も食べられたものか?」と確認していたというエピソードがあるほか、吉宗が好んだ鷹狩りを家治も好んでいました。吉宗は家治にとって目標とすべき人物だったのです。
第10代将軍に就任
宝暦10年(1760年)4月26日、第9代将軍徳川家重の片腕だった大岡忠光が亡くなると、家重は隠居を決意します。こうして同年9月2日、第10代将軍・徳川家治が誕生しました。なお、家重は宝暦11年(1761年)6月12日にこの世を去りました。
家治は就任後、老中の松平武元を呼び、「私は若く政治に慣れていない。父が病気だったため将軍を継いだが非常に不安だ」などと率直な心境を吐露。武元に対し「今後気づいたことがあれば行ってほしいし、過ちがあったらすぐに正してほしい」とアドバイスを求めました。武元は徳川吉宗のころから将軍に仕えた人物で、家治は「西丸下の爺」と慕っていました。明和元年(1764年)には武元を老中首座にとりたてています。
もう一人、家治が重用した人物がいます。それが田沼意次です。家重は遺言で、側用人として重用していた田沼意次について「またうとのもの(正直・律義な者)」であるから引き続き取り立てるよう言い残しており、家治はそれに従ったのです。
明和4年(1767年)、家治は意次を側用人にとりたて、明和9年(1772年)には老中格側用人に加え、老中に就任させます。意次は老中と側用人を兼務したのです。意次は松平武元と協力しながら政治を進めていきました。そして安永8年(1779年)に武元が亡くなると、幕府の中心人物として権勢をふるっていきます。
田沼意次による「田沼時代」
田沼意次が側用人となった明和4年(1767年)から天明6年(1786年)に失脚するまでの間は、意次が政治を主導したことから「田沼時代」と呼ばれます(※時期については諸説あり)。意次はさまざまな政策により幕府の財政を改善しようとしました。これまで幕府の財源は年貢に依存していましたが、意次は商業を重視し、新たな財源を生み出すために重商主義的な政策を次々と打ち出します。
そのひとつが「株仲間」の奨励です。株仲間は商工業者たちの同業者組合のことで、徳川吉宗の享保の改革の際に幕府が公認しました。加入者は合法的に仕入れ・販売の独占権などの特権を得ることができます。ただし、株仲間のメンバーには幕府に租税の一種である「冥加金」「運上金」を納める必要がありました。意次は商業を発展させるために株仲間を奨励し、積極的に公認していきます。
また、意次は新田開発や印旛沼の開拓、鉱山開発、蝦夷地の開発等にも取り組みます。徳川吉宗が成功させた朝鮮人参の国産化を受け、「朝鮮人参座」を作って幕府の専売にするなど、享保の改革を引き継いだ政策も多く実施しています。
さらに意次は長崎貿易に積極的にかかわり、輸出物としての銅山開発や「俵物」と呼ばれるいりなまこや干しアワビ、ふかひれといった乾物の増産を強化しています。実は江戸時代中期には、貿易による海外への金銀の流出が問題になっていました。このため正徳5年(1715年)に新井白石が「海舶互市新例」を出し、年間の取引船数や取引額を制限。中国(清)向けの輸出品として俵物を奨励していました。意次の時代もその流れは続いていましたが、不足しがちだった銀についてはこのころから輸出ではなく輸入するようになっています。
さらに意次は貨幣改革を実施しています。通貨の発行益による幕府の財政立て直しといった意味もありましたが、意次はちょっと特殊な通貨を発行しました。それが「南鐐二朱銀」です。当時「東国の金遣い、西国の銀遣い」というように東日本では金貨、西日本では銀貨が使われており、使用方法が違っていました。金貨は数えて使う「計数貨幣」でしたが、銀貨は重さをはかって使う「秤量貨幣」でした。
その常識を覆したのが南鐐二朱銀。銀貨にもかかわらず、重さではなく数えて使うもので、銀貨8枚で小判1両と引き換えできるものでした。
意次はなぜこんな通貨を発行したのか。実は意次は貨幣の金貨への統一を進めることで、経済の安定と商業の活性化につなげたいと考えていたのです。とはいえ南鐐二朱銀の時代には他の通貨も引き続き発行されており、西日本で一般化したのは松平定信の「寛政の改革」の時代を待たなければなりませんでした。
なお、さまざまな改革をした意次ですが、賄賂を積極的に活用していたことでも知られています。といっても賄賂は当時は一般的な習慣のような存在で、意次だけが受け取っていたわけではありません。しかし、意次の時代には賄賂が横行し、特定の人物が優遇されるなどの社会的・政治的混乱が起きたことは事実。重商主義的な政策を進める中で農民たちの反発を招くなどの課題も多く生まれました。
趣味に生きた優しい将軍
田沼意次が政治を主導する一方、徳川家治は何をしていたかというと、絵画や囲碁、将棋などの趣味に没頭していました。特に将棋には力を入れていたようで、詰将棋の図式集『御撰象棊攷格』を記しており、現代のプロ棋士からも絶賛されています。
さらに家治は絵画の造詣も深く、家臣たちにさまざまな絵を贈っています。落款はいくつか使っていましたが、特にお気に入りの絵には「政事之暇」と恣意的とも思えるものを使いました。
政治は意次にほぼ丸投げだったことから将軍としては微妙な評価を受けることもありますが、研究者のなかには徳川吉宗以降は官僚達による政権運営がメインとなり、将軍は象徴的な存在だったとみる向きもあります。このため近年は「有能な官吏を登用した」点から名君だったのでは、という評価もされるようにもなりました。
また、家治は人々への心配りができる優しい人物でもありました。朝早く目が覚めてしまったとき、周りの人を起こさないように忍び足で歩いたり、実家の雨漏りで親を心配していた家臣に100両を渡したりと、心遣いの人だったようです。さらに江戸で火事が起きた際、部下に様子を見に行かせるときには「火災は民の憂いであり自分の憂いでもある。火事の状況により何かできることもあるだろう。そういう心持ちで様子を見てきてほしい」と話しています。
宝暦・天明文化が花開いた時代
徳川家治の時代は、先の徳川家重のころから続く「宝暦・天明文化」と呼ばれる文化が花開いた時代でもありました。商業の活性化で自由な気風が生まれ、江戸を中心に庶民たちの間で文芸や絵画などのブームが起こり、やがて地方へと伝わってきました。庶民の間で寺子屋が増加したのもこの頃で、識字率の向上により洒落本や滑稽本のベストセラーが出現しました。
徳川吉宗の時代から盛んになってきた蘭学では安永3年(1774年)に『解体新書』が出版されています。一方で国学も盛んになり、本居宣長が『古事記伝』の執筆をはじめたのもこのころでした(完成まで約35年がかかっています)。絵画の世界では鈴木春信が多版多色刷りの浮世絵「錦絵」を完成させ、さまざまな浮世絵師が華やかな絵を描きました。
大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦重こと蔦屋重三郎が活躍しはじめた時代もこのころです。「江戸のメディア王」として知られる蔦重は版元として大田南畝や山東京伝などの作品を次々と出版。喜多川歌麿や東洲斎写楽をはじめとした澄明な浮世絵師たちの錦絵を数多く世に送り出しました。
愛妻家として知られる将軍
また、徳川家治は愛妻家としても知られています。宝暦4年(1754年)12月、家治は閑院宮直仁親王の第6王女である倫子女王(幼名:五十宮)と結婚しました。婚約が決定したのは寛延元年(1748年)のこと。家治は11歳、倫子は10歳でした。
寛延2年(1749年)には倫子は江戸城に到着して別邸にあたる浜御殿に入ります。その後、2人は順調に交流を続けて仲を深め、倫子は宝暦4年に正式に輿入れしました。輿入れまで時間がかかったのは、寛延4年(1751年)に吉宗が亡くなったためです。
倫子は宝暦6年(1756年)に長女の千代姫を生みますが翌年死亡。宝暦11年(1761年)に次女の万寿姫を出産しましたが、跡継ぎとなる男児に恵まれませんでした。なお、万寿姫はのちに10代で死亡しています。
そのため周囲の人々は家治に側室を薦めますが家治は拒否します。結局、田沼意次や乳母の松島らの強い勧めもあり、家治は家重の代から大奥に仕えていたお知保の方(蓮光院)を側室にしました。お知保の方は宝暦12年(1762年)に徳川家基(竹千代)を生みました。また、家治は倫子の侍女のお品(養蓮院)も側室に迎え、お品も宝暦12年に男児を生んでいますが、生後3ヶ月で死亡しています。
このため跡継ぎは家基一択だったわけですが、なんと家基も安永8年(1779年)2月、鷹狩りの休憩中に急に体調を崩してしまい、3日後18歳(満16歳)の若さで急死してしまいます。このため家基は「幻の第11代将軍」と呼ばれています。なお、家基については急死すぎて実は暗殺だったのではないかとも言われています。
家治は家基の死を深く嘆き悲しみました。その後も家治は子どもには恵まれなかったため、養子をとることになります。
晩年は天明の大飢饉が発生 急死で暗殺疑惑も
徳川家治は晩年、大きな天災に苦しめられました。それが天明2年(1782年)から天明8年(1788年)までの「天明の大飢饉」です。江戸三大飢饉のなかで最も被害が大きかった大飢饉は、田沼意次政権にも大きな打撃を与えました。
悪天候による不作からスタートした飢饉でしたが、天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し、火山灰が降りつもったことで農作物に被害が発生。降り積もった火山灰や大量の土砂は河床を上昇させ、洪水まで発生しました。疫病が流行り、人々の不満が爆発し、百姓一揆や打ちこわしが全国で起こりました。
そんな天明の大飢饉のさなか、徳川家治は天明6年(1786年)夏、江戸城で急死します。享年50歳(満49歳)で、死因は『徳川実紀』によれば水腫と感冒、研究によれば脚気による心不全とされています。亡くなった日は8月20日、25日、9月7日と諸説あります。ちなみに『徳川実紀』によれば公式発表は9月8日です。
急死の理由がふわっとしていることから当時は「田沼意次による毒殺では」という説も出て、死後反田沼派が意次を追い落とすのに利用されました。しかし、意次と家治の関係は良好だったことから「反田沼派による毒殺では」という逆の意見も出るようになりました。
家治の跡を継いだのは一橋家から養子に入った徳川家斉でした。家斉は天明7年(1787年)、15歳の若さで第11代将軍に就任。世継ぎに苦労した家治の反動なのか、家斉は積極的に側室をめとり、なんとその子どもは総勢53人!「オットセイ将軍」の異名をとりました。
将軍についた家斉はすぐに田沼意次を罷免し、老中首座に松平定信を任命しました。定信はその後、緊縮を掲げた「寛政の改革」を行っていくのです。
- 関係する事件
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。