今川義元(2/2)海道一の弓取り
今川義元
永禄3年(1560)には尾張国の名古野城を目指して、今川義元は軍を率いて侵攻を始めました。織田家に圧迫されていた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、織田家の砦を先方の三河武士に落とさせます。
幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて、沓掛城で待機していた義元は本体を前進させます。ところがその途中、桶狭間(おけはざま)で休息中に織田信長の攻撃を受け、家臣たちと共に奮戦するも、織田家の家臣により討ちとられました。享年42。
首を打ちとられた遺体は、今川の兵によって駿府まで連れ帰ろうとされましたが、義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬されました。
織田方に討ち取られた首は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣と信長との交渉により後に返還され、駿河に戻りました。
今川義元の人物像
今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていました。海道とは東海道を指します。弓取りとは弓矢で戦うものから「武士」、転じて「国持大名」を指します。室町時代後期、この異名で呼ばれたのは今川義元と徳川家康でした。武家の代表のような異名ですが、義元のイメージは公家のような容姿を連想させます。
義元は、幼い頃より僧として育ち、成長して京にいた事もあるので、都の文化に理解がありました。そのため、都から逃れてきた公卿を保護したり、都の流行を取り入れ統治に生かしたりしました。この傾向は、周防国の大内家や越前国の朝倉家に共通します。
さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされます。しかしこの話は後世の創作であるという説もあります。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示す故です。
例えば、義元は塗輿に乗っていたとされますが、室町幕府において塗輿は、幕府の一番高い格式、相伴衆にのみ許されていた乗り物です。馬上の武士は、路上で会うと必ず下馬しなければない決まりがある為、権威の象徴とされました。
義元は、家督相続における花倉の乱、その後の北条家や織田家との確執を通して、東海道の国人衆を統治し安定化につなげる為、これらの文化や格式を利用しようとした、したたかな人物であったのかもしれません。
今川義元と所縁の地
- 今川義元銅像
- 令和2年、今川義元の生誕500年を記念して、JR静岡駅北側に建てられました。
分国法や金山開発、街道整備など現在の東海道の発展に尽力した甲冑姿の今川義元は、ありし日の栄華を思い起こさせます。 - 臨済寺
- 静岡県葵区にある臨済寺。今川義元の軍師であった太原雪斎が、義元の兄である8代目当主今川氏輝の菩提寺として建立した寺です。氏輝は今川家の組織を整備して馬廻り衆を創設します。また商業振興などに力を注ぎ、今川家の興隆と東海道の整備に尽力しました。
- 清水寺
- 静岡市葵区にあるお寺です。もともとは義元の父である今川氏親の時代に開かれた真言密教の学問所のある場所でした。そこへ兄・氏輝の遺命により、義元が朝比奈元長に命じて永禄2年(1559)建立、京都東山の清水寺の景色に似ていたことから、音羽山清水寺と名付けられたとされています。
- 桶狭間古戦場
- 愛知県名古屋市緑区にある桶狭間古戦場。今川義元の最後の地とされる桶狭間の古戦場は整備されて桶狭間古戦場公園として市民の憩いの場所となっています。
- 義元公墓
- 桶狭間古戦場公園内にある義元公墓は、1934年(昭和9年)に建立された今川義元の墓碑です。
- 桶狭間古戦場の碑
- 桶狭間古戦場の碑(おけはざまこせんじょうのひ)は、昭和時代初期に鞍流瀬川の川底から引き上げられました。制昨年は文化13年(1816)で石板の正面には「桶狭間古戦場」、背面には「文化十三年丙子五月建」とあります。
今川館と駿府城
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏は、この地に今川館を築き領国支配の中心地としました。 天文5年(1536年)、花蔵の乱が起こると、今川義元が駿河国の領主となり今川館の主となります。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家と武田家との同盟関係が解消され、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻で、今川氏真が城主を務めていた今川館は消失してしまいます。
後に駿河国を治めるようになった徳川家康は、今川館の跡地に駿府城を建築します。駿府城は近世城郭とし建てられ、天守が築造されました。
江戸時代初期、隠居した徳川家康により隠居地とされた駿府城は、全国から集められた大名による天下普請によって大修築されます。それにより現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成しました。ところが完成直後の慶長12年(1607)、家康が移住した年に、駿府城は失火により、本丸御殿を焼失してしまいます。しかし、翌年から再建工事は開始され、慶長15年(1610)完成しました。家康の死後は、江戸幕府の直轄地として駿河国の中心地として機能しました。
現在の駿府城は、三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存せず、三ノ丸があった場所には公館庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しています。中堀は現存しますが、一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっています。また二ノ丸・本丸があった場所には、「駿府城公園」として市民に開放されています。
1989年に市制100周年の記念事業とし巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門と続多聞櫓が伝統的工法によって復元されました。内部は資料館となっており見学することができます。また、2014年(平成26年)3月末には坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元されています。
駿府城は現在、市民の憩いの場所として存在し、その姿は長い駿河国の歴史を人々に感じさせてくれます。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。