徳川家継わずか享年8歳で亡くなった最年少の将軍は何をした人か

徳川家継

徳川家継

記事カテゴリ
人物記
名前
徳川家継(1709年〜1716年)
出生地
東京都
関連する城・寺・神社
江戸城

江戸城

関係する事件

徳川将軍15代のなかで、もっとも若くして将軍位を継ぎ、8歳という若さで亡くなった将軍がいます。それが第7代将軍の徳川家継です。今回はそんな家継のわずかな生涯について、新井白石らによる側近政治や世紀のスキャンダル「絵島生島事件」などとともに紹介します。

第6代将軍・徳川家宣の四男として生まれる

徳川家継は宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の四男として江戸城で生まれました。母は側室のお喜代の方(後の月光院)で、鍋松と名付けられました。

家宣は正室に加え側室を数名かかえており、それぞれ子どもが生まれていますがほとんどが短命でした。正室の近衛熙子(天英院)との間には延宝9年(1681年)8月に長女の豊姫が生まれていますが、2ヶ月後の天和元年(1681年)10月に死亡。今度は元禄12年(1699年)に男の子が生まれますがこちらも即日死んでしまい、その後は子どもに恵まれませんでした。

このため家宣の跡継ぎは側室の子どもになりますが、こちらも次々と早世します。家宣が将軍位を継いだ宝永6年(1709年)時点ではお須免の方(蓮浄院)が宝永5年(1708年)に産んだ三男の大五郎と、喜代の方の鍋松の2人が残っており、もっとも年長だったのは大五郎でした。

ところが大五郎は宝永7年(1710年)に死亡。その後、お須免の方は正徳元年(1711年)に五男の虎吉を生みますが、虎吉も3ヶ月で夭逝してしまいます。このため家宣が病に倒れた正徳2年の時点で残されていた子は鍋松だけだったのです。

家宣は正徳2年(1712年)、インフルエンザに罹患して倒れてしまいます。病床で家宣はまだ4歳の息子の今後を憂いていました。新井白石が記した自伝『折たく柴の記」によれば、家宣は病床のなか、白石に対し「歴史を見ると、幼君を立てると世の中は乱れる。跡継ぎは鍋松ではなく成人を選ぼうと思う」と、御三家を跡継ぎに指名することを提案。尾張藩主の徳川吉通を次の将軍にして、鍋松の成人後に鍋松が継ぐ案を話しています。

しかし白石はこれに反対します。鍋松以外を将軍に指名することは、現幕府派と新しく加わる尾張徳川家の家臣たち(尾張派)との間の争いを生むことにつながるとして、家宣の説得にかかります。白石としては、これまで政治を主導してきた自分たちが尾張派に追い落とされるのではという危惧もあったに違いありません。

家宣は最後まで「自分が死んだあと鍋松の治世になったときに国が荒れたらどうするのか」と心配していましたが、結局徳川吉通に将軍を譲るのは断念せざるを得ませんでした。

鍋松、わずか5歳で将軍に就任

正徳2年(1712年)10月14日、徳川家宣はこの世を去りました。その跡を継ぐ形で正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は元服して家継に名を改め、わずか5歳(満3歳)で第7代将軍に就任します。

ちなみに元服の際は本来であれば父である家宣が諱を定めるのですが、家宣はすでに亡くなっていました。諱は上位者が決めるものと決まっていたため、幕府は朝廷を頼ります。当時の天皇は中御門天皇ですがまだ13歳だったため、院政を敷いていた霊元上皇が諱を与えることになりました。ちなみに徳川将軍で朝廷から諱を貰ったのは家継だけです。

側近政治と正徳の治

徳川家継はまだ5歳だったため、政治は徳川家宣時代のメンバーが引き続き実権を握りました。つまり、側用人の間部詮房と、政治顧問的な存在だった侍講(君主に学問を講義する学者)の新井白石による「正徳の治」が継続したのです。

正徳の治は第5代将軍・徳川綱吉の時代に悪化した幕府の財政を立て直すために始まったものです。家継時代に入ってからは、白石は正徳4年(1714年)に貨幣改鋳を実施しています。内容としては金銀の含有率(品位)を増やして貨幣の質を向上させ、インフレの解消をめざすというもの。

実は家宣の時代、白石は当時の勘定奉行・荻原重秀と貨幣改鋳に関する大バトルを実施していました。重秀は第5代将軍の徳川綱吉の時代から金銀の含有率を落とす貨幣改鋳を実施しており、貨幣の流通量を増やしてデフレを解消しようとしました。当初はゆるやかな物価上昇だったようですが、何度も繰り返した結果ハイパーインフレを引き起こしています。

一方の白石は徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉を重視。さらに金銀を陰陽五行説の観点から「天地の骨」であるとし、金銀の価値を下げることは天災を招くと非難しました。そして、宝永4年(1707年)宝永地震や富士山の大噴火などの災害は改鋳がなければ起きなかったと批判しています。白石は家宣に重秀の罷免を3度にわたって訴え、家宣は病床でこれを受け入れました。つまり、家継時代は白石の思うがままに貨幣の改鋳ができたというわけです。

しました。ただし白石の政策に対し再びデフレが起こっているので、こちらは成功したとは言い難いものでした。とはいえ研究者によって諸説あるので一概には言えませんが…。

さらに正徳5年(1715年)9月、幕府は家継を霊元上皇の13皇女・八十宮と婚約させました。八十宮は当時2歳(満1歳)。これは朝廷とのつながりを強めることで、家継の権威を高めることが目的だったと言われています。なお、白石は家宣時代から朝廷との融和政策に取り組んでおり、宝永7年(1710年)8月には幕府が費用を出し、新しい宮家「閑院宮家」を創設しています。これは皇室の嫡流を途絶えさせないようにとの取組でした。

ちなみに、家継の婚約者は八十宮で2人目です。八十宮の前には天英院の弟の娘・近衛尚子と婚約が進められていましたが、尚子は家継より7歳年上だったことから年齢的に不釣り合いでは、との考えから解消。尚子は中御門天皇に入内して女御になっています。

このほか、白石は正徳5年(1715年)、「海舶互市新例」と呼ばれる一連の法案を発布しました。これは長崎経由での貿易により海外に金銀が流出することを防止するためのものでした。具体的には清に対しては船は年間30隻まで、貿易額は銀6000貫までに制限。オランダに対しては船が年間2隻、貿易額が銀3000貫までとしています。

大奥での派閥争い

徳川家宣の時代、幼い家宣を利用して実権を握ろうと大奥では権力争いが盛んに行われていました。当時の大奥の二大派閥は家継の生母・月光院率いる「月光院派」と、子どもは全て亡くなってしまったとはいえ、以前として権力を握り続けていた正室の天英院率いる「天英院派」でした。それぞれの派閥に幕閣たちが加わり、大奥の争いは政治の世界に影響を与えていました。

ちなみに、派閥争いと書くと月光院と天英院は仲が悪かったのでは…と思われがちですが、実は当人同士は割とうまくやっており、周囲のものが派閥を助長させていたとの説もあります。天英院は家継の嫡母として後見を務めており、家継がのちに危篤になった際天英院は月光院を思いやり慰めていたようです。

家継が将軍位についたことで、家継のもとで政治を主導していた新井白石や間部詮房は月光院派との関係性を深めます。特に間部詮房は家継からも頼りにされており、家継は「えち」と呼んで慕っていたのだとか。詮房は悪いことをした場合はしっかり叱っていたようで、家継がぐずったときも「越前殿=詮房)が来ますよ」と言うとおとなしくなったそうです。親子のような親密な関係が築かれたいたのが分かるエピソードですね。

なお、間部詮房は家継の補佐役としてよく大奥を訪れており、月光院とも親しくしていました。このため月光院との不倫疑惑がささやかれています。

大奥の一大スキャンダル・絵島生島事件

家継が将軍位についたことで月光院派が大奥を掌握した?いえいえ、先代将軍の正室として大奥のトップにいた天英院率いる天英院派も負けてはいません。天英院のもとには新井白石や間部詮房を追い落として実権を握ろうとする老中たちが集い、両派は水面下で争っていました。

そんななかで起きた一大スキャンダルが絵島生島事件です。正徳4年(1714年)1月12日、月光院のもとで大奥を取り仕切っていた御年寄の絵島は、月光院の代参という形で芝増上寺の歴代将軍霊廟に赴きました。

その帰り、絵島は懇意にしていた呉服商に誘われ、日本橋木挽町(現東京都中央区東銀座)にあった有名な芝居小屋「山村座」で歌舞伎を見物します。本来代参の際のこうした寄り道はもってのほかなのですが、奥女中たちはめったに外出できないため、良い息抜きになると黙認されていたようです。もちろん絵島1人で行ったわけではなく、おつきの奥女中や護衛など、総勢130名の大人数で移動しています。

その後、出演していた人気歌舞伎役者の生島新五郎たちを茶屋に招いて宴会を開きました。しかし、絵島は宴会に夢中になって江戸城の門限を破ってしまいます。このため江戸城の門番とのもめ事になったのです。

このことが「大奥の規律を軽んじた」と幕府当局に問題視され、2月2日に絵島たちの取り調べが開始。加えて2月7日には生島新五郎や山村屋関係者が町奉行所に呼び出されて取り調べを受けることになります。生島については絵島との密通疑惑で拷問を受け、強制的に「自白」させられています。一方の絵島は拷問にあうも密通を否定し続けました。

結局絵島は月光院のとりなしなどもあり、死罪を免れ信州高遠藩(長野県伊那市)への配流、生島新五郎は三宅島への遠島となりました。山本座は取り潰しになっています。このほか、絵島の異母兄で旗本の白井勝昌は死罪に。宴会の場にいた御用商人まで遠島や閉門などの処分を受け、処罰対象者は約1500人にまで及びました。ただの門限破りが周りを巻き込む一大スキャンダルとなったのです。

江島生島事件についてははっきりしない部分も多く、近年の説では月光院派を追い落とそうとした天英院派の影があったと言われていますが、はっきりとした証拠は残っておらず、真相は闇の中です。

結局、この事件で月光院派は勢力を大きくそがれました。また、新井白石や 間部詮房に対抗する老中たちの力も強まっていきます。

8歳で病によりこの世を去る

もともと病弱だった徳川家継。絵島生島事件で幕府が混乱するなか、風邪を悪化させて病床に伏せるようになります。そして正徳6年(1716年)4月15日、わずか8歳(満6歳)でこの世を去りました。気管支炎または気管支肺炎だったといわれています。こうして2代将軍・徳川秀忠から続く徳川宗家の血は途絶えることになりました。

家継が若くして死んだことでとばっちりを食った人物がいます。婚約者の八十宮です。正徳6年(1716年)閏2月に、現在の結納の儀のような「納采の儀」を実施していましたが、実際に嫁ぐ前に家継が亡くなってしまいました。実は結婚が実現すれば史上初の武家政権への皇女の降嫁になる予定でした。結局八十宮はわずか3歳(満2歳)で未亡人になってしまったのです。家継と一度も会うことはなかったものの「将軍正室」として扱われたため、その後は嫁ぐことなく出家し、家継の菩提を弔いながら一生を送りました。ちなみに尾張藩主・徳川宗春の側室である「阿薫」が実は八十宮だったのでは、という異説もあります。

なお、早世した家継については余り記録が残っていませんが、幕府の公式文書『徳川実紀』によれば生まれつき聡明で、立ち振る舞いは優雅なものだったと伝わっています。幼くして亡くなった家継。生きていたらどんな将軍になっていたのでしょうか…。

関係する事件
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。