杉田玄白『解体新書』を著した蘭学者

杉田玄白
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江戸時代になり、幕府の政治が安定してくると武芸だけでなく学問や芸術・経済などが発展し豊かな文化が花開くようになります。特に鎖国をしていたこの時代、交易があったオランダを通じて流入した西洋の学問が蘭学です。医学、天文学、物理学など多岐にわたり、日本の近代化に大きく貢献しました。これらを学び、『解体新書』を著した蘭学者の中でも知られた杉田玄白を今回は紹介します。
杉田家の系譜
杉田家は近江源氏佐々木氏の支族です。
萬石行定の子孫である真野氏の家系とされています(間宮氏も同祖とされます)。
戦国時代、武蔵国久良岐郡杉田村(現在の横浜市磯子区杉田)の住人であった真野新左衛門信安は、間宮信高(間宮康俊の四男)に属して水軍の将として武功をあらわし、間宮の名字を許されました。
間宮(真野)信安の子の主水次郎長安は、北条家滅亡後に杉田村に蟄居し、名字を杉田に改めたとされています。その後長安は、娘婿の五兵衛忠元とともに、橘樹郡菅生(現在の川崎市宮前区菅生)に移って帰農しました。
忠元の子・杉田八左衛門忠安は、父の実家が間宮家に仕えていた縁で藤井松平家に推挙され、300石取りの物頭を務めたとされています。
武家としての杉田家は忠安の長男が継ぐが、忠安の二男が医家杉田家の始祖となる初代杉田甫仙であり、玄白の祖父でもあります。
初代杉田甫仙は西玄甫にオランダ語と蘭方医学を学び、藤井松平家(当時は古河藩主)の藩医となります。しかし、その後古河藩の改易によって浪人を余儀なくされ、最終的に小浜藩酒井家に藩医として召し抱えられました。2代杉田甫仙が玄白の父となります。
子孫
玄白は前妻・登恵との間に一男二女(扇、八曾)をもうけましたが、男児が夭折したため、杉田家宗家は、弟子で娘扇の婿となった杉田伯元(1766~1837・仙台藩医建部清庵の子)が嗣ぎ、その後弟子の杉田玄端(1818~1889、玄白再婚後の実子杉田立卿の猶子)が伯元の子・白玄(1801~1874)の養子となって宗家を継ぎました。
次娘の八曾(1775~1860)は安岡玄真の妻となりましたが離縁し、某藩の奥女中となり、同藩の藩士の子を養子にして宗端と名乗らせました。
玄白は後妻・伊與との間には、立卿(1785~1845)、藤、そめ(1791~1844)、八百(生年不詳~1853)をもうけています。
玄白にとって二男となる甫仙(後の杉田立卿)は玄白から50石を分けられて別家を立てています。
弘化2年11月2日60歳で逝去。末娘の八百は鳥取藩医・田中淳昌(生年不詳~1840)の妻となり、その子・淳良(1834~1875)は伊沢蘭軒の孫娘の婿となり伊沢棠軒(良安)を名乗りました。
孫(立卿の子)の杉田成卿(梅里、1817~1859)は幕府天文方となりましたが、生まれつきの病弱に加え心労により安政6年2月19日(1859年3月23日)に43歳で逝去。
子孫としては、成卿の娘婿に洋学者の乙骨太郎乙、その娘婿に帝室林野局技師の江崎政忠、その子に昆虫学者の江崎悌三、その長男によど号ハイジャック事件時の副操縦士・江崎悌一、二女るりの婿に法学者の手島孝、るりの孫に野球選手の長谷部銀次などがいます。
誕生と幼少期
杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日〈1733年10月20日〉は、江戸時代の蘭学医でした。若狭国小浜藩医であり、私塾天真楼を主催しました。
父は杉田甫仙、母は蓬田玄孝の娘です]。名は翼(たすく)、字は子鳳(しほう)、号は鷧齋(いさい)、のちに九幸翁(きゅうこうおう)といくつかの名が残っています。
江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷において、小浜藩医杉田甫仙の三男として生まれました。この際難産となり、残念ながら母は出産のダメージによって亡くなっています。
元文5年(1740)、玄白が8歳の時に一家は小浜へ移りました。父の甫仙が江戸詰めを命じられる延享2年(1745)まで、少年時代を小浜で過ごします。小浜では長男や義母を失うなど、幼少期から身内を立て続けに亡くしています。
青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬龍門に学んでしっかりと基礎を身に付けたとされます。
小浜藩医となり、家督を相続
宝暦3年(1753)、5人扶持で召し出されて小浜藩医となりました。上屋敷に勤めるようになります。宝暦4年(1754)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施しています。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明することとなり、日本の医学界に波紋を広げると同時に、玄白が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなりました。
宝暦7年(1757)には、小浜藩に籍を置きながら東京・日本橋で町医者として開業します]。同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内らが物産会を主催。出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまっていたと思われます。
明和2年(1765)には藩の奥医師へと出世します。同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問。
通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭されたことで、玄白はオランダ語習得を断念しています。明和6年(1769)には父の甫仙が死去。
家督(30人扶持)と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰めることとなりました。
『解体新書』の執筆と晩年
明和8年(1771)、自身の回想録である『蘭学事始』によると、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を持って玄白のもとを訪れたとあります。
玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚愕し、藩に相談してこれを購入する手続きを取ります。
偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分け(人体解剖)を実見し、解剖図の正確さに感嘆しました。
玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774)に『解体新書』として刊行します。友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上されました。
安永5年(1776)藩の中屋敷を出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅とします。
そこで開業するとともに「天真楼」と呼ばれる医学塾を開きました。玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と書き記しています。晩年には藩から加増を受けて400石に達しています。
晩年には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊されています。文化2年(1805)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上しています。文化4年(1807)に家督を子の伯元に譲り隠居。著書は『形影夜話』ほか多数残っています。
文化14年(1817)に83歳で息を引き取りました。墓所は東京都港区愛宕の栄閑院。
肖像は石川大浪筆のものが知られており、早稲田大学図書館に所蔵されています(重要文化財)。1907年(明治40年)11月15日、贈正四位となりました。
『解体新書』が発刊された経緯
明和8年(1771)3月4日、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学しています。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと “Ontleedkundige Tafelen ” をそれぞれ所持していました。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案します。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始しました。
当初、玄白と淳庵はオランダ語が読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しかったことで難航。
オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近かったと推察されます。この時の様子については、玄白が晩年の著書『蘭学事始』に詳しく記しています。玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表しました。安永2年(1773)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行しています。
安永3年(1774)、4年を経て『解体新書』が刊行されました。玄白の友人で奥医師の桂川甫三(甫周の父)経由で『解体新書』を将軍に献上しています。
『解体新書』の内容
『解体新書』は一般に『ターヘル・アナトミア』の翻訳書といわれていますが、それ以外にも『トンミュス解体書』『ブランカール解体書』『カスパル解体書』『コイテル解体書』『アンブル外科書解体篇』の図が採用されています。
また、各所に「翼按ずるに」と注釈がつけられて和漢の説も引かれているのが特徴と言えます。ここに見られる「翼」は杉田玄白の本名です。単純な逐語訳ではなく、杉田玄白らの手によって再構成された医学書だとされています。
扉絵は、『ターヘル・アナトミア』の扉とは異なる絵が採用されました。
ワルエルダ『解剖書』の表紙を模写した図に、「解体図」等の語句を加えたものであると20世紀の半ばから推定されてきました。
この書は16世紀にオランダ語で書かれており、著者名は示されておらず、ワルエルダを著者とするのは、推定にすぎませんが、2022年に「著者はヴェサリウスである」との指摘がされたことで、従来の通説が覆る可能性が出てきています。
本文は4巻に分かれています。序・凡例・図は別に1冊にまとめられました。
『解体新書』の影響
『解体新書』の刊行後、江戸では蘭学者の集団が形成されました。
日本の近代科学はこの時に始まったとも言われています。オランダ語の理解が進み、医学だけでなく、天文学、地理学など様々な分野の書籍が翻訳されるようになりました。
蘭学はその後、京都、大坂など各地に広がっていきます。
ただし、『解体新書』の刊行は西洋医術の翻訳に過ぎず、実践的な医術へと進展する上では『解体新書』以前から解剖に熱心だった古方派の影響等も重要だと考えられ、『解体新書』のみを過大評価すべきでないとの指摘も存在します。
医学への影響としては、人体の内外を客観的に観察する医学観をもたらしたこと、漢方医学にない器官として膵臓(『解体新書』での訳語は大機里爾)や門脈等を指摘した、現在でも使用されている「神経」「軟骨」「頭蓋骨」などの適切な訳語を作ったことなどが挙げられています。
『解体新書』には誤訳も多かったため、大槻玄沢が改訳を行い、『重訂解体新書』を文政9年(1826)に刊行されました。
『解体新書』は現在、九州大学医学図書館、津山洋学資料館、中津市大江医家史料館、鳥取県立図書館など所蔵されているほか、岐阜県各務原市の「内藤記念くすり博物館」では展示されているものが確認できます。
現地に行けない場合は、博物館デジタルアーカイブからも見ることができるなど、医学関係者ではなくとも広く現物に触れる機会が解放されています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。