徳川吉宗質素倹約に勤しんだ紀州藩出身将軍
徳川吉宗
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江戸時代も中期になると、商工業が発達した一方で将軍の権威や政策がうまく機能せずコントロールが難しくなってきます。度々起こる大飢饉や干ばつ、江戸の大火事などで幕府財政がひっ迫した中、登場したのが第8代将軍・徳川吉宗でした。
今回はぜいたくを戒め、新田開発などに力を入れた一方で、若い頃は時代劇のタイトル通りの「暴れん坊」だったと言われる徳川吉宗の生涯を紹介します。
誕生と幼少時代
徳川吉宗和歌山藩の第5代藩主出会ったと同時に、初代将軍家康の曾孫であり、4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたります。
貞享元年(1684)10月21日、紀州藩主徳川光貞の末男(四男)として城下の吹上邸で誕生しました。母は巨勢利清の娘・紋子です。和歌山城の大奥の湯殿番であった紋子は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がありますが、詳細のほどは不明です。
誕生後、幼年時代は家老・加納政直の元で育てられました。
理由として当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子ども)」では元気に育たないという迷信があったからです。
そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾ったという体裁を取りました。加納家でおむつという乳母を付けられ、5歳まで育てられますが、次兄・次郎吉が病死した後は名を新之助と改め、江戸の紀州藩邸に移り住みます。幼い頃は手に負えないほどの「暴れん坊」だったと言われています。
越前葛野藩主から紀州藩主へ
元禄9年(1696)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗ります。
翌元禄10年(1697)4月、紀州藩邸を訪問した第5代将軍徳川綱吉に御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となりました。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めています。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となったのです。
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わります。
しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが同じ、兄と差をつけられていたという話は信ぴょう性に疑問があります。
葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていました。同地では「紀伊領」と呼ばれ、派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士でした。
宝永2年(1705)に長兄である藩主・綱教が死去、三兄・頼職が跡を継ぎますがこの際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公されます。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となりました。
しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職まで半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任します。藩主に就任する際、綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名しました。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となっています。
宝永3年(1706)に二品貞致親王の王女真宮(理子)を御簾中(正室)に迎えていましたが、宝永7年(1710)に死別した。
宝永7年(1710)4月にお国入りした吉宗は、藩政改革に着手します。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図ったのです。
自らも木綿の服を着て率先するなど、2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮しました。
また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めています。
紀州藩主時代、深徳院(大久保忠直の娘)との間に長男・長福丸(後の徳川家重)、本徳院(竹本正長の娘)との間に二男・小次郎(後の田安宗武)が誕生しました。
江戸幕府第8代将軍に就任
享保元年(1716)に将軍徳川家継が8歳で早世、将軍家の本家血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受けて、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑え第8代征夷大将軍に就任しました。
当時、館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方、この時点で徳川家光の男系子孫は存在していました。
しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上に、清武は他家に養子に出た身、すでに高齢だったという事情で、将軍候補の選考対象から外れていました。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われています。
御三家筆頭とされる尾張家は、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713)頃に相次いで死去。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となっていました。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられて、8代将軍の有力候補であした。
しかし吉宗は、第6代将軍徳川家宣の正室(御台所)であった天英院や家継の生母月光院など大奥から支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任します。
吉宗は将軍就任にあたり、紀州藩を廃藩とせず存続させました。
通例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっていました。
しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとし、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させたのです。その上で、紀州藩士の中から加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り側役として従えて江戸城に入城しました。
この40人は、吉宗のお気に入りを選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したといわれています。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられたのでした。
享保の改革
吉宗は将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人だった間部詮房や新井白石を罷免しましたが、新たに「御側御用取次」という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治自体は存続させました。
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かして、水野忠之を老中に任命。財政再建を始めます。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである「享保の改革」を行いました。
また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行い、またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励しています。
また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた功績は偉業とされます。
しかし、一方で農民の年貢を五公五民にする増税政策により、農民の生活は窮乏、百姓一揆の頻発を招いたという側面もあります。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたために、経済や文化は停滞しました。
大御所として権力を保持
延享2年(1745)9月25日、吉宗は将軍職を長男・家重に譲りましたが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けました。
なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったものの、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われています。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったともされますが、真偽のほどは分かりません。または、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、有能さで台頭していた宗武や宗尹よりも、愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられますが、定説ではありません。
宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家・一橋家(御両卿)が創設されました。さらに、吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となっています。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになりました。
翌延享3年(1746)に吉宗は中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残りました。御側御用取次であった小笠原政登によると、朝鮮通信使が来日した際には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きの今でいうバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだとされています。
また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復したと言われています。
将軍引退から6年が経った寛延4年(1751)6月20日に死去。享年68(満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われています。
寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られました。
暴れん坊将軍と呼ばれた由来
徳川吉宗は、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公としても知られています。
そのため、本当に暴れん坊だったのか気になるところです。
吉宗は、幕府側近が今まで見たことのないタイプの将軍だったとも言われています。体格も見上げるような巨漢であり、常に木綿の粗末な服を好んで着るだけでなく、誰彼ともなく気さくに話しかける将軍でもありました。
また江戸の人々から「鷹公方」(たかくぼう)と呼ばれるほど鷹狩りを好んでいて、鷹狩りのエピソードも数多く残されています。
ある時、鷹を射止めた徳川吉宗を供の者が小さな声でほめたところ、徳川吉宗は「そんな褒めようがあるか。もっと景気よく褒めるものだ」と豪快に笑ったという話が残っています。また狩りの最中に勢子と一緒に山野を駆けていた時、家来の持った鉄砲が徳川吉宗の顔にぶつかったことがありました。家来が真っ青になって土下座をして謝ると、徳川吉宗は周囲を見回して「誰も見ていないから構わん。お前も黙っておれ」とこともなげに言ったという話も残っています。
他にも夏の真っ盛り、江戸城外の竹橋で着物を脱いで褌姿になり、その褌に刀を差して大手を振って橋を渡ってみたり、火事を見物すると言って城の御殿の大屋根に登ってみたり、徳川吉宗の豪快ぶりを示すエピソードは数多く残されています。ここから、徳川吉宗は暴れん坊というイメージが生まれたのではと思われます。
もちろん、紀州での幼少時代に関しても、暴れん坊と処されたエピソードは残っており、ドラマのタイトル通り、暴れん坊であったことは間違いないようです。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。