蔦屋重三郎(蔦重)江戸時代の名プロデューサーは生涯何した人か?
蔦屋重三郎(蔦重)
戦国が終わり、江戸時代に入ると生産力が向上、生活は豊かになります。金銭的、時間的な余裕の出来た庶民は趣味や娯楽を楽しめるようになりました。特に木版画による印刷技術の向上で、書物や絵が普及します。この時代に版元(出版元)として活躍したのが蔦屋重三郎でした。重三郎は無名だった東洲斎写楽や喜多川歌麿を起用、化政文化の一翼を担います。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で取り上げられた蔦屋重三郎を今回は見ていきます。
庶民に文化が浸透した化政文化
長い戦いが続いた戦国時代が終わると、平和な時代に入ります。
人々は戦いに巻き込まれる不安が無くなり、労働に集中できるようになりました。1603年から始まった江戸時代は1700年代になると新田開発、農業技術の向上と商品作物の生産、貨幣経済の拡充と豊かな時代になります。
米が全国から集まる大坂やそれまで文化の中心地であった京都の上方(大坂、京都)では経済を回す商人の力が大きくなりました。経済的な余裕の生まれた商人たちは余暇にお金を使うゆとりが生まれ、文化の担い手となり華やかな時代を築きました。
江戸中期の元禄文化です。小説の井原西鶴や人形浄瑠璃(人形を操り物語を進める人形劇)の近松門左衛門、俳句の松尾芭蕉、絵画の尾形光琳や菱川師宣などがこの時代に活躍しました。
さらに経済の発展は一般の庶民や農村にまで恩恵をもたらし武士や公家、商人だけではなく庶民まで日常の余暇を楽しめるようになります、化政文化の始まりです。化政文化は政治や社会の出来事、日常の生活を風刺する川柳が流行し庶民的で享楽的な色彩が強くなりました。文学は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、絵画は丸山応挙の丸山派などが活躍します。
また元禄文化で使用の始まった木版画(木製を原版とする印刷技術)は化政文化で広まり、大量印刷、低価格を可能にします。それまで一枚一枚を筆で書いていた錦絵(浮世絵)は庶民の手に届きやすくなり、出版業界が拡大していきました。この時代に蔦屋重三郎は活躍します。
蔦屋重三郎と本屋「書肆耕書堂」
蔦屋重三郎は寛延3年(1750)、遊郭の街である新吉原(現在の東京都台東区千束)で産まれたと言われます。本名は丸山柯理(からまる)と言いましたが7歳の時に喜多川氏の養子に出されます。後に姓として呼ばれる「蔦屋」は養子先の喜多川氏の経営していた店の屋号でした。
およそ23歳の安永2年(1773)、吉原の入り口である大門の手前の大通り五十間道にあった「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、本屋「書肆耕書堂」を営みました。この書店で重三郎は、鱗形屋孫兵衛が中心となって刊行していた吉原細見(吉原の妓楼や遊女のランク付け、芸者や引手茶屋などを記した略地図などが掲載されるいわゆる風俗情報誌)の小売りを始めます。
ですが最初から書物の小売りだけだは無く出版業に関心を持っていたのか、売っていた鱗形屋が重版事件で処罰されると自ら吉原細見を作成し「版元(出版元、作成元、出版会社)」販売を始めます。生まれ育った吉原に関することだったので、重三郎の吉原細見はそれまで販売されていた物より情報量と充実度を誇り版元としての地位を固めていきます。更に版元として北尾重政を絵師に起用した遊女評判記『一目千本』を刊行しました。また遊女が遊郭でデビューする時の記念物に出される豪華な遊女絵を出すなど、出版業界と吉原との橋渡し役として地位を上げていきます。
こうして遊女絵を刊行してきた重三郎でしたが、書店を営んで4年目の安永6年(1777)からは戯作本(18世紀後半から江戸で広まった大衆読み物で人の滑稽さを書いたものや芝居の内容、社会風刺などの読み物)を出し始めました。ここで喜多川歌麿(この当時は北川豊章)、恋川春町、太田南畝(この当時は四方赤良)、朋誠堂喜三二などを起用し出版物のクオリティーを上げていきます。また他の版元の株券を買収し事業の拡大も図っていきました。
吉原で出版業を始めた蔦屋重三郎は、大衆消費者に受け入れられる出版物の制作から販売を行い、事業を拡大と商いの研鑽を積んでいきます。
吉原から日本橋への進出
日本橋の通油町(とおりあぶらちょう、現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)は、版元の鱗形屋孫兵衛や鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が集まる江戸出版界の中心地でした。
吉原の版元としての地盤を固めた蔦屋重三郎は天明3年(1783)9月、版元の丸屋小兵衛の店と地本問屋の株を買い上げ、店を構えます。実父母も通油町の店に招き吉原の店は手代に任せ支店とすると、通油町に構えた耕書堂が重三郎の本拠となりました。蔦屋重三郎は出版界の中心地に踊り込みます。
この吉原から日本橋通油町へ進出した話は当時の出版業界でも大きな出来事で、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の『近世物之本江戸作者部類』の中でも取り上げられ、「世の中に吉原で遊んで財産を失う者は多いが、吉原から出てきた者で大商人として大成した者はなかなかいない」と重三郎を評しています。
蔦屋重三郎は出身の吉原で地盤を築き日本橋通油町へ進出しましたが、地の利の有利さ(出身地の吉原)でのし上がっただけではなく他の版元とは異なる絵師との付き合い方で人脈を広げていました。
江戸時代の出版業界、特に木版画は刷る元として作成される版木を売買する習慣がありました。つまり版木があればいくらでも印刷物を作成して販売できるので、版木自体に価値があり売買や抵当の対象となりました。
出版元たる版元は版木を多くそろえる事で財を築いていきます。ところが版木を作る最初の原画、この原画の制作者たる絵師には「著作権」の概念がなくわずかな報酬を支払われるだけでした。絵師は絵を描いた対価として一回だけの安い労賃を貰うだけなので生活できず、本業を別に構え副業として絵を描いていました。特に認知度の低い駆け出しの絵師は苦労を強いられます。
ところが蔦屋重三郎は才能のあると見込んだ絵師には投資を惜しまず、育てていきました。喜多川歌麿や十返舎一九などは食客として重三郎の店で衣食住を世話した記録が残されています。特に有名無名を問わず芸術に対して審美眼と理解力を持っていた重三郎の下には多くの芸術家が集まり、生活を見て貰い恩人となった重三郎に対し絵師は絵の制作で応え、蔦屋の出版物に秀作が多いという結果に繋がったのではないかと考えられています。
山東京伝と社会風刺
さて日本橋に店を構えた蔦屋重三郎。重三郎は吉原時代に知己を得た狂歌師の太田南畝との関係で、自らも蔦唐丸(つたからまる)と号し狂歌師としての活動を始めます。
狂歌師の集まりであった吉原連に所属し『いたみ諸白』『狂歌百鬼夜狂』など複数の狂歌本に重三郎の作品が確認できます。この活動の中で狂歌師らを連れて吉原で派手に遊びまわり、幅広い交際を持ちます。蔦屋からも狂歌本をだすようになり、蔦屋の狂歌本は他の追随を許さないほどの出版量となり巨大な版元へと成長していきました。
しかし日本は1770年代から冷害が続くようになり天明年3年(1783)には岩木山、浅間山が噴火することで火山灰が成層圏に達し太陽光が届かず、壊滅的な農作物被害を起こしました。天明2年(1782年)から6年続いた飢饉は「天明の大飢饉(江戸四大飢饉の一つ)」と呼ばれ、社会は不安定な状況になります。
これを打破するため幕府は田沼意次に代わり老中となった松平定信が質素倹約、風紀の取り締まりを旨とした寛政の改革を断行しました。
この寛政の改革に対して大衆はただでさえ不景気の中で気持ちも暗くなります。この大衆の反応を読み取った蔦屋重三郎は黄表紙(大衆読み物の中でも洒落、風刺の効いた読み物)を出版します。その中で起用したのが山東京伝でした。
山東京伝、本名は岩瀬醒(いわせさむる)で江戸深川の出身。後に銀座に転居し小物販売店「京屋」を開いて、自らのデザインした紙製煙草入れが大流行します。京伝は商いの傍ら、浮世絵師、戯作を作成しました。
蔦屋重三郎は寛政の改革に対して朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画の黄表紙『文武二道万石通』を上梓し、痛烈に風刺し爆発的に売れます。その他、佐野政言と田沼意知の刃傷事件を取り扱った『時代世話二挺鼓』(山東京伝)をはじめ、『鸚鵡返文武二道』(恋川春町)、『天下一面鏡梅鉢』(唐来参和)、『奇事中洲話』(山東京伝)といった政治風刺を含んだ黄表紙を相次いで制作しました。これに幕府も発禁処分で対処しましたが、事態を重く見て寛政2年(1790)に問屋、版元に対して出版取締り命令を下し、出版物の表現内容や華美な着色、装飾などに対して規制を強めていきました。
寛政3年(1791年)には山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発され、山東京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減の処分を受けました。
喜多川歌麿と美人画
幕府からの処罰を受けた蔦屋重三郎は、社会風刺を含んだ戯作の出版を控え和算書や暦書、仏書、国学書など「物之本」と呼ばれる硬派な学術書を増やし、大衆向けの「地本」だけでなく出版事業の足場を固め、次の機会を伺います。
そして重三郎の打った次の手が喜多川歌麿の大々的なプロデュースでした。
喜多川歌麿は、江戸時代後期の浮世絵師です。
当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本や大首美人画など美人画で一世を風靡。特に体の部分を省略し顔だけをクローズアップさせる事で女性の表情だけでなく内面や艶も詳細に描き、モデルとなった女性(遊女、花魁、茶屋の娘など)の名は江戸中に広まりました。
喜多川歌麿は重三郎の意図を汲み取り、大首絵と呼ばれる顔を大きく捉えた構図で表現する様式を美人画に初めて取り入れます。その絵は表情や仕草からモデルとなった女性の心情が思い浮かべることで人の心を惹きつける作品を量産しました。
特にモデルとなった浅草水茶屋「難波屋」のおきた、両国煎餅屋「高島長兵衛」の娘のおひさ、吉原の浄瑠璃富本節の名取の富本豊雛は「寛政三美人」と呼ばれ、人気を博します。
しかし喜多川歌麿の人気は風俗の乱れを呼ぶと幕府の警戒心を招き「一枚絵などにモデルとなった女性の名前を入れてはいけない」といった町触れを出し厳しい目を向けます。
重三郎は幕府の規制を回避するため、判じ絵の手法を入れる事でモデルの名前が分かるような形で刊行するなどの対策を行ったが、こうした趣向も寛政8年(1796)には禁じられるようになりました。
東洲斎写楽と役者絵
幕府の規制の前に、蔦屋重三郎と喜多川歌麿の関係は疎遠になっていきます。そこで重三郎は次の出版物に東洲斎写楽を起用することを思いつきます。
写楽は寛政6年(1794)5月から10ヶ月の間に145点の作品を発表した浮世絵師です。ところがその存在には謎が多く、阿波(現在の徳島県)藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛ではないかと考えられています。
東洲斎写楽は江戸の歌舞伎である都座、桐座、河原崎座を取材し、黒雲母摺の豪華な背景に主役級だけでなく端役も含めて取りそろえた大判大首絵二十八図を携えて大々的に発表します。その作品は役者の目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張し、役者が持つ個性や表情、ポーズをダイナミックに描くことでそれまでになかった作品となりました。
しかし蔦屋から出した刊行は長くは続かず、第4期刊行を以て写楽の役者絵刊行は終了し写楽は姿を消しました。写楽の作品は役者の特徴を描き出そうとするあまり、役者の欠点的な特徴までもが強調される作風になっていたため、役者自身や役者のファンに不評だったのではないかと推察されています。
蔦屋重三郎の死と葛飾北斎
東洲斎写楽の起用が思うように上手くいかず、蔦屋重三郎は不採算事業の整理や喜多川歌麿との関係修復を図ります。ところが寛政8年(1796)の秋ごろより体調が悪化し始め翌年の5月6日、脚気(ビタミン欠乏症)により亡くなり、吉原にほど近い正法寺に葬られました、享年47。
さて重三郎の亡くなった後の蔦屋。
『南総里見八犬伝』の作者、曲亭(滝沢)馬琴は若い頃に蔦屋重三郎に見込まれ手代として雇われていた時期があったので、重三郎亡き後の蔦屋に関して言及しています。
二代目蔦屋を継いだのは番頭で婿養子だった勇助で、重三郎が亡くなると二代目は葛飾北斎を起用します。
葛飾北斎は江戸時代後期の浮世絵師で、90歳で亡くなるまでの70年間に人間の仕草や風景画、動物、昆虫、自然現象など3万4千点を超える作品を発表しています。代表作は「富嶽三十六景」で、北斎の画業はヨーロッパに影響を及ぼし19世紀後半のジャポニズムブームを起こします。
二代目の勇助が用いた時期は、「葛飾北斎」より以前の「宗理」「画狂人北斎」の号を用いていた時代の作品を出版しています。
こうして蔦屋は書物問屋、地本問屋として四代目の文久元年(1861年)まで続きました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。