新井白石旗本から大出世した学者
新井白石
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江戸時代に入り、豊臣家も滅ぼされて幕府の基盤が整えられ安定してくると、今までのような武断政治は徐々に時代と合わなくなってきました。そんな中、第3代将軍・家光以降は直系男子が将軍職を継ぐ形も崩れます。そして、第6代将軍・家宣と、幼少で早世した第7代将軍・家継に仕え、旗本ながら学者・幕臣として出世。正徳の治をけん引しました。今回は、新井白石の生涯について紹介します。
幼少期から成人まで
新井白石は江戸の大半を焼く大被害が出た明暦の大火(別名:振袖火事)の翌月の明暦3年2月10日(1657年3月24日)に、江戸柳原の避難先で生まれました。
先祖は上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれています。のちに父・新井正済は上総久留里藩に仕官して、目付を務めています。
幼少の頃より学芸に対する非凡な才能を開花させ、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説も残っています。聡明な一方で気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主・土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという逸話があります。延宝2年(1674)、17歳で中江藤樹『翁問答』(1649年刊)を読み儒学を志すようになります。
利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあったため、父の正済は「仕えるに足らず」と一度も出仕しませんでした。そのため、新井父子は2年後の延宝5年(1677)に土屋家を追われてしまいます。白石は貧困の中で儒学・史学に励み詩文を学んでいました。
その後、直樹が狂気を理由に改易されると自由の身となった白石。
天和3年(1683)、大老・堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄・稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河・山形・福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化します。白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けました。
この間、豪商の角倉了仁から「知人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われ、ある時は河村通顕から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けますが、白石は好意に感謝しつつ、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話も残ります。
朱子学者・順庵との出会い
独学を続けていた白石は、貞享3年(1686)になって朱子学者・木下順庵に入門します。
通常、入門には束脩(入学金)が必要でしたが、白石は免除され、順庵も弟子というより客分として遇するほど白石に目にかけていました。
順庵の門下生には白石の他、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海など、後に高名な学者になる者が多く集まっており、順庵に入門できたことは白石にとって意義のあることでした。
師匠の順庵は白石の才能を見込み、加賀藩への仕官を見つけてきます。白石も後年「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩は前田綱紀のもとで学問が盛んでした。
ところが同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないでしょうか」と頼まれ、岡島にこの地位を譲ったのです。
その後、順庵は白石を元禄6年(1693年)、甲府藩主である甲府徳川家への仕官を推挙します。白石が37歳の時です。
藩主・徳川綱豊は当初、林家に弟子の推薦を依頼しますが、当時の綱豊は将軍・徳川綱吉から疎んじられていたことで、林家からは綱豊に将来性なしと見限られ断られていたのです。そこで順庵に推挙を依頼しました。
甲府徳川家の提示した内容は、当初30人扶持の俸禄だったが、順庵が「白石よりも学問が劣る弟子でさえ30人扶持などという薄禄はいない。これでは推挙できかねる」とかけあい、甲府徳川家からは改めて40人扶持が提示されました。
それでもなお順庵は推挙を渋りますが、白石は「かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず(御両典である甲府徳川家は他の大名家とは訳が異なる)」と、むしろ綱豊の将来性を見込んで順庵に正式に推薦を依頼したのです。
この読みは当たり、のちに綱豊は第6代将軍となっています。
正徳の治
第5代将軍だった徳川綱吉は、多額の支出をして寺社を建立して祈祷、生類憐れみの令を出しましたが、庶民を苦しめました。綱吉の死後、新井白石がこれを廃止しています。
宝永6年(1710)、綱豊は諱を家宣と改め、第6代将軍となりました。家宣は将軍に就任すると、側用人の松平輝貞・松平忠周を解任、大学頭・林信篤を抑えて、白石にその職責の大半を代行させます。
家宣が将軍後継ぎとなったことで甲府徳川家は断絶となり、家宣は白石や間部詮房を引き続き自身の側近として登用し続けます。白石や詮房は将軍家宣の時代に、正徳の治と呼ばれる政治改革を行いました。
白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本のため、御用部屋に入るわけにはいかず、家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取ったと伝えられており、一介の旗本が将軍侍講として幕政の運営に深く関与したのは異例のことでもありました。
白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではありましたが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたして、両者の間には深刻な軋轢が生じるようになります。
自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るため、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになりました。様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしています。
家宣が没すると、その子の7代将軍・徳川家継の下でも引き続き、間部と共に政権を担当することになりましたが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極めました。幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと、白石は失脚。
公的な政治活動から退きました。
なお、城廻(鎌倉市)に家禄を得ると、白石は付近にある龍宝寺に200石を献上しています。龍寶寺には、風化して判読不能ですが、享保10年(1725)に室鳩巣が撰した「朝散大夫新井源公碑銘」が残っています。
経済政策
- 通貨吹替え
- 第5代将軍・徳川綱吉の時代に荻原重秀の通貨政策によって大量に鋳造された元禄金銀および宝永金銀を回収、徳川家康の「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてるよう」の言葉に忠実に慶長金銀の品位に復帰させるため、良質の正徳金銀を鋳造して主観的にはインフレの沈静に努めました。
しかし、実際には経済成長に伴う自然な通貨需要増に対応した前政権の政策を無にする結果となったとも言われています。白石は、日本橋のたもとに高札を立てて意見を求めるところまで追い込まれました。 - 長崎貿易の縮小
- 開幕以来の長崎貿易で大量の金銀が海外に流出したために、長崎貿易そのものが困難となりました。そのため貿易を基盤としていた長崎は困窮、人口の減少や打ちこわしに悩まされました。白石は長崎の困窮を解決するため、貿易そのものを縮小する政策(海舶互市新例)を取ります。
- 外交政策
- 朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するため、朝鮮通信使の待遇を簡略化させました(この一件は順庵の同門だった対馬藩儒・雨森芳洲と対立を招いています)。また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」としています。
また、ローマ教皇からの命でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、長崎を経て江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還が上策と建言しました。
白石はこの事件により得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著しています。シドッチの世界知識に興味を示し、ローマ字の合理性を見抜くも、キリスト教に関しては一貫してこき下ろしています。 - 皇室政策
- 閑院宮は、皇統の断絶を危惧した白石の建言で創設され、宮家を創設しました。東山天皇の第6皇子直仁親王が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718)祖父の霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜ったのです。
白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王第六王子祐宮は後嗣なく崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779)光格天皇となっています。
引退後
職を辞した後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆されました。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたと伝わります。
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移りますが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲しました。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板があります。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような寂しい土地だったようです。
晩年は不遇の中でも著作活動に勤しみました。
『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725)5月19日、死去、享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にあります。
白石の著書
白石は諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、日本政治史を論じた『読史余論』、古代史を論じた『古史通』、また白石自身「奇会」と断言したシドッチへの尋問後に記した西洋事情の書『西洋紀聞』『采覧異言』、さらに琉球の使節(程順則・名護親方寵文や向受祐・玉城親方朝薫など)らとの会談で得た情報等をまとめた『南島志』や、回想録『折たく柴の記』などを残しました。
特に著書『古史通或問』の中では、古代史上最大の謎といえる邪馬台国の位置を大和国と主張しており、日本で初めて本格的に論じたものとして有名です。ただし、邪馬台国の位置については、晩年の『外国之事調書』で九州説に転じています。
歴史関連では、他に晩年執筆された『史疑』がありますが、白石の没後所在不明となっているのが残念なことです。
白石の著書の多くは幕府の禁忌に触れることもあって、明治になるまで刊本は出てこず、自筆本や写本が幕臣等の間で密かに伝わるだけでひっそりと受け継がれていきました。
新井白石の評価
正徳の治で第5代将軍・綱吉の政策を修正したことは評価されています。その一方で、生来持っていた自分の意見や主張・思想を貫き通す点については他の幕臣と対立を起こすこともあり、他人の意見を尊重するという意味では柔軟性に欠けていたかもしれません。
また、理想や自分の思想を優先するあまり、現実的な側面を考慮せず、通貨政策には失敗したという評価もあります。
学者としてのみであれば、障害穏やかに過ごせた可能性は高いかもしれませんが、一方で政治において残した功績もあり、身分が決して高くなかったにしては大出世したと言えるでしょう。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。