徳川家宣短い治世に終わった将軍

徳川家宣

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人物記
名前
徳川家宣(1662年〜1712年)
出生地
東京都
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江戸城

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江戸時代も第4代将軍以降は初代の徳川家康直系ではなくなっていき、御三家等から選ぶことも増えていきますが、それでも幕府の治世は安定し、武断政治から文治政治へと舵を切っていきました。

そんな中、第6代将軍として就任したのが徳川家宣です。将軍になった年齢も遅く、治政も短いものでしたが、幕臣に新井白石などを抜擢しました。安定した政治を行った彼の生涯について紹介します。

誕生と複雑な幼少期

寛文2年4月25日(1662年6月11日)に、徳川綱重の長男として、江戸根津邸(現・東京都文京区根津)にて生まれました。母は田中時通の娘・保良子です。父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い母・保良子に生ませた庶長子であったため、大名の子であるにもかかわらず、庶子として扱われることになりました。

父は世間をはばかり、家臣である新見正信に預けられたため、養子として新見 左近(しんみ さこん)と名乗りました。

生母は寛文4年(1664年)に死去してしまいます。

9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世継ぎとして正式に呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱をもらって綱豊(つなとよ)と名乗るようになります。延宝6年(1678年)10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・順性院に育てられました。

徳川綱重とは?

徳川綱重は、甲斐国甲府藩主でした。

江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の父であるだけでなく、第3代将軍・徳川家光の三男でもあり、第4代将軍・徳川家綱の弟、第5代将軍・徳川綱吉の兄と、江戸の徳川将軍本家に近い血筋の人物です。

母は側室の夏(順性院)、養母は伯母の天樹院(千姫、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室、後に本多忠刻の正室)、乳母は松坂局(畠山義継の娘)。

第3代将軍・家光が亡くなる直前の1651年(慶安4年)4月、甲府藩15万石に封じられ、江戸・桜田の屋敷に住むようになります。

所領は甲斐国・武蔵国・信濃国・駿河国・近江国に散在しており領国に赴くことはありませんでした。その後、朝廷の位階で参議に補任され、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれるようになります。

1654年(承応3年)、別邸・甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築されました。1661年(寛文元年)、10万石加増され、計25万石を領するようになります。1662年(寛文2年)、長男・虎松(のち綱豊、家宣)が誕生しましたが、庶子のため家臣に預けました。

1678年(延宝6年)、兄・家綱に先立って35歳で死去しています。

第5代・第6代将軍候補に

延宝8年(1680年)、第4代将軍である徳川家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟であった上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補となります。しかし、この時は、老中の堀田正俊が家光に血が近いこと、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立し、家綱の異母弟である綱吉を強力に将軍候補に推薦視したことから、綱豊の将軍就任とはなりませんでした。

しかし、第5代将軍・綱吉にも跡取りの男子ができず、一時は綱吉の娘婿の紀州藩主徳川綱教が後継候補として名前が上がります。

しかし、3代将軍徳川家光の孫であることからより徳川本家の血筋に近いことが功を奏して将軍世嗣に正式に定まり、「家宣」と改名。

綱吉の養子となって、晴れて江戸城西の丸に入ったのは宝永元年12月5日(1704年12月31日)、家宣が43歳の時と歴代の将軍よりも遅い年齢でした。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されています。

将軍に就任も3年で死去

宝永6年(1709年)、第5代将軍の綱吉が亡くなったため、48歳という異例の遅さで第6代将軍に就任します。
宝永通宝の流通と酒税改革 、生類憐れみの令の一部を順次廃止し、特に生類憐みの令の廃止は庶民から歓迎されました。さらに、柳沢吉保の辞職によって側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用して、綱吉時代から始まった文治政治を強力に推進し、琉球や李氏朝鮮との外交や宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みます。

しかし在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去。享年51(満50歳没)。家綱・綱吉と同様に家宣も後継者に恵まれず将軍職を継いだのは家宣の4男・わずか3歳の徳川家継で、政治は引き続き間部や新井白石らに依存することになりました。

文治政治

文治政治(ぶんちせいじ)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍家継までの時期の政治のことです。
初代将軍徳川家康から3代将軍家光までの治世は別名・武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固めるための時期であった。

当時は、まだ豊臣秀頼も存命で、大坂に火種を抱えていたことや、全国を統一したとは言ってもまだ不安定な部分があったことから、厳しくする必要がありました。

大坂の陣で豊臣家を滅亡させたのち、その他幕府に逆らう大名、あるいは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩・譜代・外様の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行ったため、主を失った浪人が少なからず発生し、彼らは戦乱を待望し治安が悪化しました。

また、征夷大将軍としての武威を強調するために行われた、大名による参勤交代や手伝普請などは、大名にとって多額の出費になり、そのしわ寄せは農民の生活苦に繋がっていきます。そして、寛永17年(1640年)から寛永20年(1643年)頃に起きた寛永の大飢饉の被害が全国規模に及んだことは、武威に依拠した当時の限界を露呈することになったのです。

家光が病没すると、後継である4代将軍家綱が幼弱であったことから、慶安4年(1651年)に由井正雪は丸橋忠弥らと共謀し、家綱を奪取し、幕政批判と浪人救済を掲げる蜂起を企てました(慶安の変)。また、別木庄左衛門による老中襲撃計画(承応の変)もあり、幕閣は武断政治からの方針転換を迫られることとなりました。

文治政治~家綱の時代~

幼弱の家綱に代わり、大政参与として幕政を補佐したのがその叔父に当たる会津藩主保科正之や老中であった厩橋藩主酒井忠清たちでした。

特に保科正之は、浪人発生の原因である大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しています。寛文3年(1663年)に武家諸法度を改正(寛文令)し、当時は当たり前であった殉死を禁止、大名からの人質を出す大名証人制度を廃止しています。

これによって、戦国時代から続いていた武断の気風を消し、将軍と大名、大名と家臣の主従関係は個人同士の関係から、主人の家に従者は仕える関係に転換することとなり、大きな変化を迎えました。
また、寛文4年(1664年)には寛文印知を実施し、将軍の地位を確立しています。

農村では農地の分割相続により本百姓の零落が始まった頃でもあります。

幕府や各藩の財源は年貢として納められる米に依存していたため、本百姓を維持するために延宝元年(1673年)に分地制限令を発布。

また、この時期は江戸が都市として拡大していく中で上水道の整備が課題となっており、玉川上水が整備されました。また、諸大名も安定した平和による軍役の負担の軽減により藩政も安定し、寛永の大飢饉を背景に新田開発が盛んになり、結果として領内の経済も発展していきます。

この時期に善政を行い、名君と呼ばれた大名に前述の正之の他に岡山藩主池田光政、水戸藩主徳川光圀、加賀藩主前田綱紀が挙げられるでしょう。しかし、明暦の大火による江戸城の焼失と再建、佐渡相川金山からの金採掘の減少、諸物価に対する米価の下落は幕府の財政を逼迫することになります。

寛文9年(1669年)に保科正之が隠居した後は大老に昇格した酒井忠清が稲葉正則・久世広之・土屋数直・板倉重矩ら各老中達と共に家綱の上意を受けて集団指導体制を執り行うことになり、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令、諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、豪商の河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国の流通政策・経済政策の発展を促しました。

文治政治~綱吉の時代~

延宝8年(1680年)、家綱は跡取りのないまま死去、その弟である館林藩主徳川綱吉が後を継ぎました。綱吉が5代将軍に就任したすぐの頃には大老であった堀田正俊が若年寄の稲葉正休に殿中で刺殺された事件も起こったことから、側用人の柳沢吉保が実権を掌握していました。

綱吉は館林藩主時代から儒学を好んで学んでおり、その影響は当然政策に反映されました。綱吉は天和3年(1683年)、天和の武家諸法度を発布しています。

この中には「文武忠孝ヲ励マシ、礼儀ヲ正スヘシ」と記載されていて、従来の元和の武家諸法度に記載されていた「弓馬の道」から大きく内容を変え、主君に対する「忠」と父祖に対する「孝」を基盤とした礼儀による秩序を構築するものであったとされています。

礼儀による秩序を構築・強化するために以下のような施策も実行しました。
将軍権威の浮揚のために朝廷政策も緩和され禁裏御領を1万石加増し、湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任命しています。

また、綱吉にも跡取りがいなかったため、貞享4年(1687年)に動物愛護令である生類憐れみの令を発布しました。これによって、一方では幕府の財政難に拍車がかかったことは否めません。他方では同時期に出された服忌令(近親者の死去に際して喪に服す期間(服忌)を定めた法令のこと)、捨子禁止令からも見られるように、道徳観を民衆に植え付けることで、文治政治を強化する狙いがあったとも言われています。

綱吉並びにその生母であった桂昌院の散財、生類憐れみの令の採用などと相俟って家綱の代からの慢性的な財政赤字は先述のように悪化していったため、勘定吟味役に荻原重秀を登用し、元禄改鋳を行い、幕府は貨幣発行益を得たものの、今でいうインフレーションを招き庶民の生活を苦しめることになりました。

一方で上方を中心に元禄文化が栄えることにも繋がっていきます。また、長崎会所を設置し長崎貿易の制限を行いました。

積極的な文官の登用に取り組んだ家宣

第6代将軍に就任した徳川家宣は、先代の徳川綱吉と同様に文官を積極的に登用していきました。徳川綱吉の時代から、財政面で優れた実績を挙げていた幕臣・荻原重秀を重用しています。荻原重秀は、徳川家宣による治世の間だけでなく、そののちも、江戸幕府における財政政策のブレーンとして活躍しました。

しかし、徳川綱吉の側用人を経て大老格にまで登り詰め、当時強大な権力を保持していた柳沢吉保については罷免し、大胆な血の入れ替えを断行します。

徳川綱吉時代から引き継いだ政策なども一部ありましたが、その一方で、積極的な改革も行なうことを厭いませんでした。この人材登用策の一環として新たに登用されたのが、甲府時代の家臣であった間部詮房や新井白石たちです。

彼らは統治者の徳をもって、人民を治める思想に基づいた「徳治主義」を標榜(ひょうぼうし、徳川家宣の配下において幕政の実質的な実行者として重宝されました。

徳川将軍15代の中でも最も高齢で将軍に就任したこと、そして3年の短い治世で終わったことから、家宣の評価はそこまで高いとは言えない風潮があるのも事実です。しかし、その治世での政策は第7代将軍にも引き継がれていったこともあり、善政を敷いたと近年では評価される傾向にあると言えるでしょう。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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