徳川家綱跡継ぎに恵まれなかった第4代将軍

徳川家綱

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名前
徳川家綱(1641年〜1680年)
出生地
東京都
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江戸城

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江戸時代、初代の徳川家康から第2代の徳川秀忠、第3代の徳川家光と安定的に直系へ将軍職が引き継がれていき、第4代将軍に就任したのが徳川家綱です。

家綱は家光が盤石に固めた幕政をさらに発展させ、全体的に善政を敷いた反面、幼少で将軍となり、跡取りにも恵まれず末弟へ将軍職を譲るなど、私生活では幸せとは言い難い一面もありました。今回は、そんな彼の生涯について紹介します。

誕生から将軍就任まで

寛永18年(1641)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸で誕生しました。母は七澤清宗の養女・楽子です。幼名は代々徳川将軍家の跡取りが受け継いできた竹千代を名乗ります。乳母は川崎(真現院)・三沢局(近江小室藩主・小堀政一の側室)でした。

なお、家綱の誕生のお祝いとして、朝鮮通信使が派遣された記録も残っています。徳川将軍家の嫡男の誕生で朝鮮通信使が派遣された唯一の事例です。

父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたと言われています。その理由として挙げられるのが、家光自身がと弟の忠長との間で幼少の頃に世継争いがあったためとも言われており、一方でなかなか跡取りに恵まれない中でようやく生まれた待望の男児だったためともされていますが真偽のほどは不明です。

正保元年(1644)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645)4月に元服の儀を迎えます。その後、元服したことで慶安3年(1650)9月に西の丸へ居を移しました。

慶安4年(1651)4月20日に父・家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられました。元服しているとはいってもまだ弱冠11歳にしかなっておらず、幼年で将軍職に就いたことによる不安もありました。しかし、逆に将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した結果となります。

12月には将軍として本丸へ居を移します。この前例を受けて、家綱以後(最後の第15代将軍・慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなりました。

将軍就任後の治政前半

家綱の時代になり、父・家光の時代まで進められてきた幕府機構の整備がさらに強化されていきます。特に父・家光の異母弟であり、家綱にとっては叔父にあたる保科正之を主導者にして外様大名などに対して一定の配慮を行ないました。

また、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われました。

万治2年(1659)4月には左大臣に任じられるのを辞退しています。寛文4年(1664)には1万石以上の大名に対する領知朱印状を、翌寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領知目録を交付しています(寛文印知)。

末期養子の禁の緩和

江戸時代初期に大名の末期養子(武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐため緊急に縁組された養子)は江戸幕府によって禁じられていました。

武家の家督を継ぐためには、主家(大名にとっては徳川将軍家が主家)に事前に届出をして、嫡子たることを認められる必要があり、末期養子はこの条件を満たすことができなかったためです。

将軍と直接拝謁できる御目見以上の格の大名家においては、跡取りは将軍との謁見(御目見)を済ませておくことも必要とされていました。末期養子がこのように厳しく禁じられたのは、次のような事情によるとされています。

まず、末期養子においては当主の意思の確認が困難であったことが挙げられます。
家臣などが当主を暗殺し、彼らに都合の良い当主に挿げ替えるなどの不法が行われる事態を危惧したからです。
しかし最も重要な理由としては、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めることに大いに意を用いていたことが挙げられています。末期養子の禁止もその手段の一つとして活用されたのでした。

支配体制のいまだ確立していない江戸時代初期には特に顕著で、幕府の成立から3代将軍徳川家光の治下にかけて、嗣子がないために取り潰される大名家が続出しており、61家に上ったと記録されています。これは幕藩体制を確立するために大いに役立った反面、それらの大名家に仕えていた武士たち(陪臣、陪々臣など)は浪人となる他なく、社会不安も増すという負の側面もありました。

それが極限に達したのが、慶安4年(1651年)に起きた慶安の変です。
由井正雪ら浪人が徒党を組んで幕府転覆を企てたこの事件は、幕府の大名統制策が新たな不安定要因を生み出していたことを明らかにするものでした。またこれより前、寛永14年(1637年)から翌年にかけて起こった島原の乱でも、多くの浪人が一揆に加わったことがその鎮定を困難にした一因とされています。慶安5年(1652)の承応の変と合わせて、これらの出来事は江戸初期の武断政治から文治政治への転換を促しました。

このような事情と、幕府の支配体制が家光の時代を経て一応の完成を見たと判断したことから、慶安4年12月11日に保科正之の主導によって、幕府は末期養子の禁を解きました。とはいっても、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる「判元見届」という手続きが必要でした。

しかし、後に当主生存の確認は儀式化していきます。
また、末期養子も緩和されたとはいえ無制限に認められたわけではありませんでした。

末期養子を取る当主の年齢は17歳以上50歳未満とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかったのです。

17歳未満の者が許可されるのは寛文3年(1663)、50歳以上の者が許可されるのは天和3年(1683)になってからとなりました。

殉死を禁じ価値観を変える

殉死は、主君などの死に際して家臣や妻があとを追って死ぬことです。日本のみならず、世界的に中世頃までは一般的でした。殉死する者が自主的に自害するのであれば問題ありませんが、主君に仕えていたというだけで強制的に殺され、殉死させられることもあったのです。

江戸時代には、戦いが亡くなり太平の世となったため戦国時代のように戦死するような状況は必然的に減少します。しかし、主君が病死など自然死した場合であっても、家臣が忠誠心を示すために殉死することがありました。

江戸時代初期は、まだ武断政治の影響が強く、「殉死は武士らしい美徳である」とされたのです。

しかし寛文3年(1663)に、幕府は殉死は「不義無益」(ふぎむえき:人の道に外れ、益もない)であるとして、その禁止が口頭伝達されました。

理由として、殉死によって優秀な人材が失われることを防ぐ目的があります。「家臣は主君個人に仕えるのではなく、「主君の家」に仕えるべきである」と言う太平の世となった平和の世にふさわしい主従関係を示したのです。

なお、徳川家綱没後の1683年(天和3年)、「殉死の禁止」は「末期養子禁止の緩和」と共に、江戸幕府が諸大名を統制するために定めた基本法である「武家諸法度」に加えられ、本格的に施行されました。

治政後半から最期

寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退したりしました。
寛永の遺老とは、は、江戸幕府3代将軍徳川家光の死後、生前に家光によって取り立てられた松平信綱ら幕政を主導した政治家たちのことです。

いわば、家綱から見ると父の残した幕臣ということになります。

寛永年間(1624~1644)に、家光および信綱を中心とする家光の幼少期からの側近(6人衆)によって、江戸幕府は統治機構を盤石にしました。

1651年(慶安4年)に家光が病没すると、嫡男だった徳川家綱が4代将軍に就任します。当時11歳と若年だったため、幕政は信綱をはじめ、家光の異母弟で家綱の叔父にあたる保科正之や家光時代からの大老であった井伊直孝、酒井忠勝、老中であった阿部忠秋、御側であった中根正盛、その他に稲葉正則、酒井忠清らを加えての集団統治体制によって、家綱の治世前半15年間が主導されることになりました。
結果的に、これが家綱の治政前半が安定するという結果に結びつきます。

このため、彼らに代わって寛文6年(1666)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営されます。

治世後半には家光の時代に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われました。

また、家綱の時代には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、イングランド船リターン号による通商再開要求、鄭氏政権による援兵要請などが起こっていますが、家光の時代以来の鎖国政策が堅持されています。この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生しました。

側室のお振、お満流は家綱から寵愛を受け、両者とも子を懐妊しましたが、いずれも死産または流産という結果で男児に恵まれません。その後家綱には30半ばに至っても後を継ぐ嫡男が産まれなかったため、将軍継嗣問題が緊急の問題となっていました。

延宝8年(1680)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊のすすめによって自分と同じく家光の子であり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とします。そして、跡取りを指名した直後の5月8日に死去しました。

享年40 (満38歳没)。死因は未詳ですが、急性の病気(心臓発作など)と言われています。家綱の死によって、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れました。

以後は、嫡男がない場合に御三家(尾張・紀州・水戸徳川家)から将軍を選出するようになります。

家綱の人徳

まだ父・徳川家光が健在だった頃、幼かった徳川家綱は側に仕える家臣から、遠島(江戸時代の刑罰)になった罪人についての話を聞きました。
そこで、家綱は疑問が浮かびます。

「その罪人たちは、一体何を食べているのだろうか?」と不思議がったのです。

当時、流罪となった人に対しては食糧の支給などはしておらず、着の身着のまま何日も過ごすうちに餓死する者も多い現実がありました。

家綱の疑問に対して何も答えられなかった家臣達に対して、家綱は「流罪として命を助けたにもかかわらず、なぜ食糧を与えず餓死させているのか。矛盾ではないか」と投げかけます。家臣からこの話を伝え聞いた徳川家光は大いに喜び、今後は流罪となった人に対しても一定の食糧を与えるよう家臣に命じました。

嫡男である家綱の発言から、将来性を感じた父・家光もこの発言から「流罪人に食料を与えた件は家綱の最初の施策にするように」と命じたと言われています。

家臣の進言を聞き入れる懐の大きさ

若き時代の徳川家綱は、庭にある大きな石を撤去するように、重臣であった酒井忠勝に命じました。竹刀を振るなど剣術の稽古の邪魔になるからという理由からでした。

しかし、命じられた酒井忠勝は「石を外へ出すためには、土塁や塀を壊さなくてはならない。勘弁してほしい」と訴えます。そこで、松平信綱が「土を掘って石を埋めてはどうか」と提案しました。
ところが酒井忠勝はこれに反対。

「将軍たる家綱様が思いのまま政務を行なえば、やがてわがままの度を超えて暴君となり、民をないがしろにすることは必定」と主張します。要は、政治にはできることと、できないことがあり、それをはっきりと諭して分かってもらうことこそが重要だとし、松平信綱を感服させたのです。

父・徳川家光なら、家臣からの諫言などを受け入れず、怒りまま一刀両断に成敗していたとしても不思議ではありませんでした。また、主君の意に沿わない家臣は成敗しても許される時代でもありました。家綱の治世になると、家康から家光までの3代で敷いた施策などが完成したこと、太平の世になったことで政治基盤も安定。
家綱が幼くして将軍となっても揺らがないほど安定していたと言えるでしょう。

一方で散財も目立ちました。家光が死去した時には500万両あったとされる財政も、大火や江戸城修復のための支出でかなり使い、家綱死去時には100万両を切っていたとも言われています。
以後の幕府では、たびたび緊縮財政となりました。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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