近松門左衛門江戸の歌舞伎・浄瑠璃文化を支えた文化人
近松門左衛門
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- 近松門左衛門(1653年〜1724年)
- 出生地
- 福井県
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江戸時代も3代将軍・徳川家光の時代を過ぎる頃になると太平の世となり、それ以前の武を重んじる文化よりも、庶民も楽しめる娯楽文化に重きが置かれていきます。その中で特に花開いたのが、歌舞伎や人形浄瑠璃(現在の文楽)、能楽でした。
役者がもてはやされた一方、作品を描く作者や絵師である浮世絵師からも人気者が出たうちの1人が近松門左衛門です。今回は、彼の生涯を紹介します。
近松門左衛門の出自と本名
実は、本名は杉森 信盛(すぎもりのぶもり)です。別名として平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号することもありますが、この記事では、近松門左衛門として表記します。
近松門左衛門の「近松」という名の由来については、明らかにはなっていません。
一説には、「近松寺」という寺に関わりがあったことによるためとする話があり、近江国大津にあった近松寺を由来とした説として『音曲道智編』には、「…始めは堂上方に仕官して、其後近江のちか松寺に遊ぶゆへ、此苗字を呼けり」とあります。
また、「…越前人、少き時肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に住す」では肥前国唐津の近松寺が由来としています。さらに『戯財録』には、「肥前唐津近松禅寺小僧古澗、碩学に依て住僧と成、義門と改む…肉縁の弟、岡本一抱子と云大儒の医師京都にあれば、是に寄宿して堂上方へも還俗して勤仕の間…」とあり、近松門左衛門は元々僧侶であったのに後に還俗し公家に仕えたと記されています。他には「近松」とは母方の姓だという話もあります(近松春屋軒『近松門左衛門伝』)。
しかしこれらの説はいずれも近松門左衛門が没後、50~100年程度経ってからの話ばかりです。むしろ近松という名が共通するところから後に加えられた伝説ではないか?といわれているのが現状と言えます。
誕生から成人まで
近松門左衛門は、越前国(現在の福井県)の武士である杉森信義の次男として生まれました。母は医師の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘・喜里です。
幼名は次郎吉、元服後の諱は信盛と称しました。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいます。
出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説ありましたが、現在は越前国であるとする説が確実になっています。
近松門左衛門の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えました。
近松門左衛門の生誕年は承応2年(1653)ですが、昌親の吉江への入部は明暦元年(1655)です。昌親と家臣団は吉江以前は福井に居住していたと考えられており、昌親に仕えた信義の子である近松門左衛門も、福井市生まれとされています。
しかし当時の福井藩に関する資料の調査では、昌親は正保3年(1646年)から江戸に在住し、その家臣団は藩主昌親の吉江入部以前、既に吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたことが明らかとなっていることから、信義も他の家臣たちとともにこの時期から吉江に在住し、近松門左衛門は吉江すなわち鯖江市で生まれたとする見方も出ています。
成人後京都へ
寛文4年(1664)以後、父・信義は吉江藩を辞して浪人となります。越前国を去った父・信義は、京都に移り住みましだ。
どうして父・信義が藩を辞したのかについては、理由が明らかになっていません。
この時期の近松門左衛門の消息の詳細についても明らかになっていませんが、山岡元隣著の『宝蔵』(寛文11年〈1671〉刊行)には、両親等とともに近松門左衛門が詠んだ句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められています。
近松門左衛門が晩年に書いた辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあり、青年期に京都に住んで官位の高い公家に仕え暮らしたと見られています。恐らく、その京都で公家に仕えていた時期に見聞し、修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃の脚本を書くにあたり、大きく生かされたと考えられています。
少なくとも、暮らしに困窮していた様子はなく、京都で様々な最新の文化や教養を身につけたと考えるのが自然だという説が有力です。
浄瑠璃と歌舞伎の作者として活躍
公家に仕える暮らしから離れた近松門左衛門は、当時京都で評判だった浄瑠璃語り宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになります。
そのきっかけについても、詳しいことは分かっていません。しかし、『翁草』(神沢杜口著(江戸時代中期の随筆家、歴史家、俳人))の記述によると、近松門左衛門は公家の正親町公通に仕えていた時、公通の使いで宇治加賀掾のもとに行ったのが縁となり、浄瑠璃を書くようになったという記述が残っています。
加賀掾は延宝3年(1675年)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、そこで浄瑠璃を語っていました。近松門左衛門が加賀掾のために浄瑠璃を書くようになったのが、いつのころからなのか定かではありません。
この当時の慣習として、浄瑠璃や歌舞伎の作者の名をまだ世に出すことがなかったからです。なおこの時期、兄の智義と弟の伊恒は大和国宇陀松山藩に召し抱えられています。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに岡本一抱(為竹)と改名しました。
天和3年(1683)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されましたが、翌年に加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本(興行責任者)となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を得ました。
『世継曽我』に作者名はありませんが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松門左衛門の作であることは間違いないとされています。
以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、貞享2年(1685)に竹本座で出された近松門左衛門作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれています。
貞享3年(1686)には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出しました。
元禄5年(1692)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかとも言われています。最初の結婚についてはよく分かっていません)、その間に一女一男をもうけました。
このうち男子は多門と称し絵師になっています。元禄6年(1693)以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書きました。10年ほどして浄瑠璃に戻りますが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになります。
元禄16年(1703)、『曽根崎心中』を上演。宝永2年(1705)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出します。このとき近松門左衛門は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念しました。
正徳4年(1714)に筑後掾は没するが、その後も近松門左衛門は竹本座で浄瑠璃を書き続けました。正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとなります。
老年期と最期
享保元年(1716)、母の喜里が死去。同年、摂津国川辺郡久々知村の広済寺再興に講中として加わりました。晩年の近松門左衛門は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削しています。享保9年、『関八州繋馬』を最後の作品として、11月に死去しました。享年72、戒名は阿耨穆矣一具足居士。
辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。
墓所は大阪府大阪市中央区谷町八丁目の法妙寺跡です。
谷町筋の拡張工事の際に法妙寺は霊園ごと大阪府大東市寺川に移転しましたが、近松の墓だけが旧地に留まりました。なお、移転先にも供養墓としてレプリカが建てられています。ほかにも広済寺に墓が、東京法性寺に供養碑があります。
忌日(命日)の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれており、冬の季語となっています。
近松門左衛門と同時期のライバル
近松門左衛門のライバルには、紀海音や竹本義太夫などがいます。
近松門左衛門と紀海音は、ともに江戸時代を代表する浄瑠璃作者で、新しい時代の浄瑠璃を作り上げていきました。近松門左衛門の代表作である『出世景清』は、それまでの浄瑠璃と一線を画し、当代浄瑠璃として出発したことでも知られています。
また、竹本義太夫は近松門左衛門の盟友でもありましたが、ライバルとの競争で苦戦した際に、近松に脚本を依頼しました。竹本義太夫が提案したアイデアをもとに、近松門左衛門は『曽根崎心中』を執筆し、大当たりした経緯を持っています。
現在、近松門左衛門の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作あります。歌舞伎の作では約40作が認められています。
世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品のことで、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されませんでした。
同時期の紀海音も近松門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したという事実があり、享保8年(1723)、江戸幕府は心中物の上演を一切禁止したという経緯もあります。
近世浄瑠璃のはじまりとなった『出世景清』
『出世景清』(しゅっせ かげきよ)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目で、貞享2年 (1685) 大坂竹本座で初演されました。全五段、時代物。のちに歌舞伎化されています。
幸若舞の『景清』をベースとしており、平家滅亡後も生き延びて源頼朝を討ち滅ぼそうとする悪七兵衛景清の苦悩を描きます。それまでは宇治加賀掾に作品を提供していた近松門左衛門が、初めて竹本義太夫のために書いた作品でもあります。
貞享2年(1685)、大坂の竹本義太夫と京の加賀掾が大坂道頓堀で競演したが、井原西鶴が加賀掾のために『暦』『凱陣八嶋』の2作品を書いたのに対し、義太夫は『賢女の手習幷新暦』と近松の新作『出世景清』で対抗した記録が残っています。
景清は『平家物語』や能楽、幸若舞でも取り上げられたメジャーな題材ではありましたが、近松門左衛門がそこから悲劇的な葛藤をメインにとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てたことが高く評価されています。
本作は義太夫節の創始と位置づけられる画期的なものでもあり、それまでの浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「当流浄瑠璃」と呼んで区別するようになりました。
代表作となった『曽根崎心中』
『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)は、世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)です。一段構成で、1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語で、大阪には今でも「お初天神」があります。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれています。
大阪にはお初天神商店街があり、心中した2人にちなんだイラストなどがあしらわれたモニュメントもあります。また、お初天神は、悲恋で心中したことからあまりいいイメージがないと思いきや、縁結びのスポットとして高い人気を誇ります。
また、ビジネス街と飲み屋街のはざまにあることから、通勤客などが境内を横切ることも多く、昼夜問わず人が行き交う場所です。
- 関係する事件
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。