徳川綱吉犬公方と呼ばれた第5代将軍

徳川綱吉

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人物記
名前
徳川綱吉(1646年〜1709年)
出生地
東京都
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江戸城

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徳川家康がひらいた江戸幕府も、第3代家光の時代には天草の乱なども平定され、安定した治世となります。兄の第4代将軍・家綱の跡を継いで第5代将軍に就任した徳川綱吉は、治政前半は安定した政治を行いましたが、後半では有名な悪名高い「生類憐みの令」などを発布しました。一方で儒教を重視するなど、別の一面も持っていました。綱吉の波乱の生涯について、今回は見ていきましょう。

誕生から舘林藩主時代

3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646)1月8日、江戸城に生まれました。母は、家光の側室だったお玉の方(後の桂昌院)、幼名は徳松(とくまつ)と称しました。

慶安4年(1651)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領して家臣団を付けられることになります。

同月には父の家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けて第4代将軍に就任します。

承応2年(1653)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服し、偏諱(「綱」の字)を受けて長松は綱重、徳松は「綱吉」とそれぞれ名乗った(「松平右馬頭綱吉」と松平姓を称したとされています)。同時に従四位下・左近衛権中将・右馬頭に叙任し、同年正三位叙位へと位が上がりました。

明暦3年(1657)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したため9月に神田へ移ります。寛文元年(1661)閏8月、25万石を与えられ上野館林藩主となりました。

12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称されるようになります。同時に、徳川姓を名乗ったと考えられます(館林徳川家の創設)。

幕府からは、変わらず家臣が付属されており、誕生後から館林藩主となるまで380人近くが派遣されました。寛文10年(1670)に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢しています。館林藩主となったものの、綱吉自身は基本的に江戸で生活しており、綱吉に従う家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。そのため、生涯のうち館林に寄った回数は寛文3年の将軍家綱に随伴した日光詣での帰路のみであったと言われます。

一方で、寛文5年11月19日に綱吉は将軍より鷹狩場に行く許可を得て、鴈を将軍に献上した後、石川乗政が将軍の返礼の使者として館林の狩場へ赴いていることから、綱吉は鷹狩りのために館林に訪れることがあったと想定されています。

舘林藩主から将軍跡取りへ

兄であり、第4代将軍であった徳川家綱には、跡取りとなる男児が産まれませんでした。
家綱の側室であったお振や、お満流は家綱の子を懐妊したものの、残念ながら死産や流産が続き、家康の幼名であり、徳川将軍家の跡取りが代々名乗ってきた「竹千代」を継ぐ男児ができなかったのです。

結局、家綱には30代半ばになっても後を継ぐべき男子がなく、「将軍継嗣問題」が憂慮されていたところ、延宝8年(1680)5月初旬に病に倒れてしまいます。

危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊のすすめで末弟の館林藩主であった松平綱吉(徳川綱吉)を養子に迎えて自分の跡取りとし、その直後5月8日に死去しました。家綱の死によって、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れ去りました。

家綱の養子になれたであろう三兄の綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられた綱吉は、同月に家綱が40歳で死去したために、内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受けることとなります。こうして、第5代将軍・徳川綱吉が誕生しました。

善政を敷いた治政前半

綱吉は、兄・第4代将軍の家綱時代に大老を務めていた酒井忠清を廃して、自分の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とします。その後、忠清は病死していますが、酒井家を改易したかった綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたと伝わります。

結果的に粛清するに足る証拠は出てこず、結局は忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまりました。

綱吉は堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査したり、政治にあまり関与しなかった家綱と違い、積極的にかかわりました。そのおかげで「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落していた将軍権威の回復に努めたと言えるでしょう。

また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置し、有能な小身旗本の登用も試みました。実際に、荻原重秀もここから登用されています。それ以外にも、外様大名からも一部幕閣への登用など、有能な人材登用に努めていました。

また、戦国の殺伐とした気風を排除し、徳を重んじる文治政治を推進しました。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことが影響しています。家光は、自分が弟との跡目争いになりかけた経験から、綱吉には「弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにしたい」と考えていたようです。

綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行ったり、また四書や易経を幕臣に講義したりしたほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍でもありました。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られており、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させています。

公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増していることから、朝廷との関係も良好だったようです。
のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因でした。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極める土台を作りました。
これらの政治的スタンスから、綱吉の治世前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられました。

治政後半は悪政と評されるように

しかし貞享元年(1684)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになります。

また綱吉は儒学の「孝」に影響され、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をしました。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいわれています。

この頃から有名な「生類憐みの令」をはじめとする後世に“悪政”と評されるような政治を次々と行うようになっていきます。
「生類憐れみの令」については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされますが、この説は信ぴょう性がないとされています。

なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつあります。他にも様々な発布をしており、これらが幕府の財政を悪化させる原因となりました。そこで、勘定吟味役(後の勘定奉行)・荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施しましたが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたことや、元禄金と元禄銀の品位低下のアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵から、かえって経済を混乱させる結果となりました。

嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、綱吉の娘婿(娘・鶴姫の夫)である徳川綱教(紀州徳川家)が候補に上がったものの、徳川光圀が反対したという説もあります。宝永元年(1704)、6代将軍は甥(兄・綱重の子)で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決定。

綱吉は宝永6年(1709)1月10日に成人麻疹(天然痘)により死去、享年64。
綱吉の死去後、「生類憐みの令」はすぐに廃止されました。

生類憐みの令

「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」は、「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称です。綱吉の時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総称と言えます。

保護する対象は、捨て子や病人、高齢者、そして動物でした。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んでいたといいます。
漁師の漁についてはは許容されており、一般市民が漁師が獲った魚を買うことが許されていたとの説もあります。

貞享4年(1687)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されています。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っていたとの記録があります。

儒教を尊んでいだ綱吉は、将軍襲位直後から「仁政」を理由として鷹狩りに関する儀礼を大幅に縮小、自らも鷹狩りを行わないことを決めていました。

かつては跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母・桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていましたが、隆光僧正を発端と見る説は近年衰退しつつあります。

この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものがもととなっていますが、隆光が知足院の住侍として江戸に滞在するようになった貞享3年(1686)以前から、生類憐れみ政策は開始されていたのです。
徳川家康は鷹狩り非常に好んでいましたが、生類憐みの令によって鷹狩りも禁止され、また鷹狩りの獲物などの贈答も禁じられました。

地方でもこの法令の影響は多大でした。馬の保護に関する法令については老中が各藩に対して通達を行い、これをうけた薩摩藩は当時支配下においていた琉球王国にも通達しています。

ただし運用はそれほど厳重ではなかった地域もあるようです。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ「殺生」を重ねていたと記録にあります。

また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかった(できなかった)とみられています。

長崎町年寄は、元禄5年(1692)および元禄7年(1694)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出していますが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていました。

江戸城では貞享2年から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じた一方、公卿に対する料理に使うことを認めています。これは生類政策よりも儀礼を重視した結果だと言われています。

特に綱吉は犬を保護したとされることが多く、綱吉の「犬公方」と呼ばれるようになる一因となりました。徳川綱吉が丙戌年生まれのためともいわれています。

宝永6年(1709)正月、綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残しました。しかし、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていきました。

ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もあります。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き、8代将軍・徳川吉宗によって廃止されています。鷹狩りが復活したのも、吉宗の代になってからです。

家宣が生類憐みの令を撤回したことを農民は喜んでいたと伝わります。
それだけ生活に大きな影響があったからでしょう。

綱吉の死後

綱吉は宝永6年(1709)1月10日に成人麻疹(はしか)で亡くなりました。綱吉の御台所であった鷹司信子も同時期に麻疹に罹り亡くなったことで、綱吉と信子の夫婦仲が良くなかったこと、信子が綱吉の死後に亡くなったことから、後世には奇妙な噂が伝えられています。

当時、将軍や御台所が亡くなると、出棺するまで遺体に正装を着せて拝謁するという風習がありました。
綱吉と信子のこの儀式の後、大奥では多くの女性が麻疹にかかり、命を落としたことから遺体から閉鎖的な大奥内に蔓延したのではないかという説も残されています。

当時は麻疹など現代では命に総関わることがない病気でも、閉鎖的で医学が今ほど発展していなかった大奥では蔓延しやすく、綱吉の時代に限らず命を落としたものも多く出ました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.04