天草四郎(2/2)島原の乱で散ったキリシタン

天草四郎

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人物記
名前
天草四郎(1621年〜1638年)
出生地
長崎県
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島原城

島原城

関係する事件

肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易によって大量に発生した浪人を中心に一揆が組織されていたのです。
島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)で会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎を総大将とし決起することを決めました。

寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、この事件をきっかけに島原の乱が勃発します。

この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化に成功、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたそうですが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化はできませんでした。

反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようと迫る反乱軍の追い落としに成功し、乱に巻き込まれずに済みました。また、南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもあったようです。

島原藩の鎮圧

島原藩は乱がおこると、直ちに討伐軍を派遣し、深江村で一揆軍と戦いますが兵の疲労を考慮して島原城へ引き返します。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固め、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げました。

島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとするも、その武器を手に一揆軍に加わる者も多かったといわれています。

一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念しました。

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取ります。

勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めましたが、本丸の防御が固く落城させることはできませんでした。

攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるものの、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城しました。

ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれます。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えました。

慶長9年(1604)に主要部の竣工が行われた際に、原城はキリスト教による祝別を受けており、キリストによって祝別された原城は、キリシタンの人々にとって強固な軍事施設であるとともに籠城するのに相応しい城であったといえます。

戦況と天草四郎の最期

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うも敗走させられました。

城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かった反面、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さいため、石高の大きい地を治めている大名の多い九州の諸侯は従いませんでした。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を仕掛けましたが、強引な突撃で都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死。この報せに接した幕府は1月10日(2月24日)、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じています。

新たに着陣した信綱率いる九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲。大目付・中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧。

討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが失敗。

更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送るも、一揆軍は拒否します。

2月24日(4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続、水野勝成は総攻撃を主張。長引くと幕府の威信に関わるため、信綱は総攻撃を決定。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるも、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始しました。

この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧されました。

幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶。わずかに残された信者たちは深く潜伏、隠れキリシタンとなります。

こうして終わった島原の乱と天草四郎の最期。四郎の生年が分からないものの、まだ十代の少年であったことは間違いないようです。現在でも、天草地方では天草四郎ミュージアムが建てられるなど、地元のヒーローとして親しまれています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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