天草四郎(1/2)島原の乱で散ったキリシタン

天草四郎

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人物記
名前
天草四郎(1621年〜1638年)
出生地
長崎県
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島原城

島原城

関係する事件

戦国時代が終わり、天下統一された当初は布教が制限されつつも認められていたキリスト教ですが、江戸時代になると締め付けが厳しくなり、ついにキリシタンは弾圧される事態になります。

しかし、布教や信仰を禁止する頃には武士以外にも、多くのキリシタンが存在しており、弾圧に反発した九州の島原で大規模な反乱がおこりました。島原の乱を率いたと言われる天草四郎について紹介します。

天草四郎という名について

天草四郎は、元和7年(1621)ごろに生まれたとされています。熱心なキリシタンで、島原の乱における一揆軍の中心人物だったとされています。

本名は益田時貞(ますだときさだ)です。キリスト教における洗礼名については、当初「ジェロニモ(Geronimo)」と名乗っていましたが、のちに「フランシスコ(Francisco)」に改めています。この記事では、一般的によく知られているは天草四郎で統一します。

幼少期から島原の乱前夜

天草四郎は九州の肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市旭町)で生まれ育ち、島原の乱がおこる直前には、父に伴われて大矢野村の親戚のもとに行ったと言われています。

彼が肥後で生まれたことについては、ドアルテ・コレテの手記からも確認できています。

学問修養のために何度か長崎を訪れ、島原の乱直前に父に伴われて天草へ移ったといわれています。キリスト教には長崎で入信したと推測されますが、詳細は分かっていません。

なお信憑性が低い説として、四郎が長崎の浜町に住んでおり、その屋敷跡がのちまで残っていたということが『長崎地名考』に載っていますが、恐らく伝承の類でしょう。

生まれながらにしてカリスマ性があったと言われています。また、経済的に恵まれた環境で育ったことから、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようです。

小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立され、徐々に神格化されていったと考えられています。
イエス・キリストのように様々な奇跡、例えば盲目の少女に触れるとたちまち視力を取り戻した、海面を難なく歩いた、手から鳩を出したなど、様々なことを起こしたという逸話も残っています。

しかし、これらの伝承や逸話は、イエス・キリストが起こした奇跡として新約聖書の四つの福音書にも多数残されており、おそらく四郎のカリスマ性と名声を高める目的で来られ野話が捏造され、吹聴されていったものと考えられています。

島原の乱の概要

島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)から寛永15年2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で勃発した百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府に対する大規模な反乱です。「島原・天草一揆」「島原・天草の乱」とも呼ばれますが、教科書などの一般的な記述は「島原の乱」です。この記事でも、島原の乱で統一します。

松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担と、払えない場合に生きて火を付けられる等の苛烈な処罰に困窮したこと、藩によるキリシタン(カトリック信徒)の苛烈な迫害、飢饉の被害も加わり、両藩に対して起こした反乱とされています。
乱に加わったのは、農民だけではなく漁業や工業・商業に携わる町民や浪人たちも加わり、かなり多様な人が参加していました。

島原はキリシタン大名の有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んでしたが、慶長19年(1614)に有馬氏が転封、代わって大和五条から松倉重政が入封しました。

重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりし、その費用などをねん出するために領民から年貢を過重に取り立てました。

また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残酷な拷問・処刑を行っていたことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っています。

重政の後を継いだ松倉勝家も重政の政治姿勢を継承、同様の過酷な取り立てを行いました。島原の乱は、江戸時代初期の大規模な反乱・内戦で、幕末の動乱時代を除けば豊臣家の大坂の陣以降、最も大きな内乱だったと言えるでしょう。

天草という地の意味

天草は元々、キリシタン大名であった小西行長の領地でした。

関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われています。

『細川家記』うあ『天草島鏡』など同時代の記録には、反乱の原因を年貢の取りすぎにあると記載されていますが、島原藩主であった松倉勝家が自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張したとされています。

江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したことで、島原の乱は「キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着しています。

しかし、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっていることから、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争」というイメージは反乱の一面に過ぎません。
そのためか、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままです。

松倉重政の企てたルソン侵略計画

1630年、松倉重政はルソン島侵略を幕府に申し出ました。
三代将軍・徳川家光はマニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたものの、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許したのです。

1630年12月14日、重政は長崎奉行・竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせました。

彼らは商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島に渡航。それぞれ10人の足軽を従えていましたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡しました。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢を敷いていたそうです。

重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたとされています。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫、日本によるフィリピン侵略は1637年には息子の松倉勝家の代でも検討されました。

オランダ人は当初、1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたようですが、実際は将軍ではなく榊原職直と馬場利重でした。

遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったものの、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていたとされています。フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力でしたが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けました。

島原の乱

過酷な年貢の取立てに耐えかねた島原の領民は、地域の指導的立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化され、密かに反乱計画を立てていました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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