徳川家光(2/2)江戸幕府を盤石にした3代将軍

徳川家光

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名前
徳川家光(1604年〜1651年)
出生地
東京都
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江戸城

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親政が始まった後、まず長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633)から寛永13年(1636)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布しました。

寛永12年(1635)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えました。

同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、寛永12年(1635)に九州各地の中国人は長崎のみに居住が許され、ポルトガル人は寛永13年(1636)長崎の出島に隔離されました。

寛永14年(1637)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意、寛永16年(1639)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認。

そのうえで長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布しました。寛永18年(1641)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させています。ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからであり、当時はあくまでも厳しい隔離という体裁だったようです。

政権の安定と飢饉、死去まで

これら3代将軍・家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は現在では「武断政治」と言われています。

長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後となっています。

寛永18年(1641)には側室・七澤楽子(お蘭/またはお楽の方とも呼ばれる)の間に嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれました。

寛永11年(1634)に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認め、紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図りました。

ところが幕府の基盤が安定したと思われた矢先の寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受けます。更に正保元年(1644)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題が立て続けに起こり、家光は体制の立て直しを迫られました。

正保元年(1644)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布します。

慶安3年(1650)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死。享年48。
家光の死に際して、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死しています。遺骸は遺言によって東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られました。

同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は大猷院に定められました。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営されています。

家光と姉弟との仲

前述の通り、家光と弟・忠長は幼少のころから両親(秀忠・お江の方)の愛情が弟に集中したことで微妙であったとも言われます。

家光が将軍就任後、忠長も中納言に任官。寛永元年(1624)には駿河・遠江・甲斐で55万石を領する大大名となり、2年後に従二位権大納言に任官したことから通称「駿河大納言」と呼ばれるようになりました。

御三家の尾張・紀州と肩を並べる官位・所領でした。同寛永3年(1626)、実母のお江がし、 同寛永3年には家光の上洛にも随行するも、家光の行列が便利なようにと、忠長が大井川に船橋を架けたところ、「箱根大井は街道第一の険要であり、関東の障蔽であると神祖(家康)も大御所(秀忠)も常々仰せであるのに、余計なことをする」と家光の怒りを買ってしまいます。この頃から忠長は、重臣たちの諫言に耳を貸さず、大坂への移封や100万石への加増を願うなど、一線を越えた要求が増えていきます。

また殺生禁断の地の浅間山に入ると、人々の制止を振り切って、浅間神社の神獣といわれた猿を1200頭も殺し、「忠長卿狂気」と噂されるに至りました。

寛永8年(1631)、「身のふるまい凶暴にして、去年より罪なき家士数十人を手討ちにせられ、そのさま狂気に類せり」という理由で、忠長は甲府への蟄居を命じられました。

翌年の父・秀忠危篤の際も江戸入りは許されず、父の死に目には会えませんでした。秀忠が死去した後、忠長は全所領没収の上、高崎に蟄居。そして寛永10年(1634)12月、幕府の命により高崎の大進寺で自刃したのでした。
一方で、姉の千姫とは仲が良かったようです。千姫は、豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣で大坂城を脱出して江戸に戻った後、本多忠政の長男・忠刻と再婚して一男一女をもうけるも、男児は夭折し、さらに夫となった忠刻も死去し、再び江戸へと戻ります。

江戸城内の竹橋御殿に住み、出家して天樹院と称しました。その後、寛永6年(1629)には加賀藩の前田光高との婚儀の話もあったようですが、双方乗り気ではなかったため取りやめとなったようです。

家光は、姉の千姫をことのほか大切にし、江戸城内で穏やかに暮らせるよう気を配っていたとも言われています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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