豊臣秀長(1/2)天下人の有能な弟
豊臣秀長
戦国時代、大成した武将たちの下には優秀な身内や譜代と呼ばれる家臣たちの支えがありました。農民から一代で成り上がり、他の戦国武将のように信頼できる身内や譜代と呼ばれる家臣たちがいなかった豊臣秀吉にとって、貴重な存在だったのが弟である豊臣秀長です。兄・秀吉の短所を補って、有能さで天下統一の大きな助けして力を発揮しました。今回は、そんな豊臣秀長の生涯を紹介します。
誕生から成人、織田信長臣従へ
天文9年(1540)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれました。通説では幼名を小竹(こちく)と名乗っていたとされていますが、確認できる文書は残っていません。その後、小一郎(こいちろう)と改称し、兄・秀吉に仕官した時には木下小一郎長秀と名乗っていたようです。
美濃国の斎藤龍興との戦いでは、織田信長の合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かったと言われています。
天正元年(1573)、秀吉が浅井久政・長政父子を滅ぼした功によって長浜城主となると、城代を務めることもありました。この3年後、1576年には、秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続きました。
『信長公記』によると天正2年(1574)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣しています。
天正3年(1575)、羽柴の名字を与えられました。
秀吉が信長の命令により中国攻めの総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられようになります。黒田孝高(黒田官兵衛)宛の秀吉直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が出るなど、秀吉陣営の最重要の人物となります。
天正5年(1577年に秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦しました。竹田城が斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、城代に任命されています。
天正6年(1578)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、兄と共に制圧に明け暮れることになり、支配の後退した但馬を再度攻めることになります。同年、黒井城の戦いに援軍として参戦。
天正7年(1579)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃する。続いて淡河城を攻めるが、淡河定範の策により撤退しました。しかし定範が城に火を放ち、三木城に後退したため補給路を断つことに成功(三木合戦)。但馬竹田城より丹波北部の天田郡、何鹿郡に攻め入り江田氏の綾部城を攻略し落城に追い込む。天正8年(1580)1月に別所一族が切腹し、三木合戦が終戦しました。
但馬時代
天正8年(1580)4月、秀吉軍が但馬国有子山城を落城させ、悲願の但馬国平定が達成されました。戦後、秀長は但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられた。同年5月、有子山城に入ります。祐豊の子山名堯煕は羽柴家家臣として召し抱えられ鳥取城攻めに従軍。それに伴い山名家旧臣但馬国人の多くは羽柴家家臣となっています。
天正9年(1581)3月に毛利家から吉川経家が鳥取城に入城すると、秀吉は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始されました(鳥取城の戦い)。もちろん秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮しており、同年10月、経家の切腹により終戦しました。
天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、かの有名な水攻めを行います(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦。6月には水攻めの効果により、城主・清水宗治が切腹しました。
しかし、ここで大きく宣教が変化する出来事が起こります。
本能寺の変から小牧・長久手の戦い
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が明智光秀による謀叛(本能寺の変)で横死する事件が起こります。
他の織田家重臣より早くこのことを知った秀吉軍は、すぐさま戦闘状態であった毛利家と和睦協定を結んで、畿内へ速やかに撤退を開始する。俗に言われる秀吉の「中国大返し」に従って、秀長も一緒に機内に戻り、明智光秀と秀吉が対決した山崎の戦いに参戦、黒田孝高(黒田官兵衛)と共に天王山の守備にあたっています。
天正11年(1583年)、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにも参戦、田上山に布陣して秀吉が「美濃大返し」を行うまで木ノ本の本陣を守備しました。同年美濃守に任官し、但馬・播磨の2ヶ国を拝領して有子山城と姫路城を居城にしました。
天正12年(1584)、秀吉と徳川家康との間で対立が起こり、小牧・長久手の戦いが勃発します。秀長は家康と連合を組んでいる織田信雄領の伊勢へ進軍し、松ヶ島城を落とすなどして支援しました。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いていることからも、厚い信頼があったことが読み取れます。
この戦いでは甥・羽柴秀次が失態により秀吉に叱責される事態が起こりましたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力しました。
官位が大納言に
天正13年(1585)、紀州征伐では甥の秀次と共に秀吉の副将に任命され、太田城攻めなどに参加します。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられました。また同年、居城となる和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命しています。
同年6月、四国攻めでは病気で出陣できない秀吉の代理人として10万を超える軍勢の総大将に任じられ、自らも阿波へ進軍します。
しかし、長宗我部氏の抵抗も非常に激しく、また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となりました。
心配した秀吉から援軍の申し出が届きますが、秀長は断りの書状を秀吉に送ると、一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させました。同年閏8月18日、元親を降した功績を賞されて、紀伊国・河内国に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入城しますが、実際の石高は73万4千石であったと言われています。
秀長の領国である紀伊・大和・河内地方は平定後も特に寺社勢力が強く、決して治めやすい土地柄ではありませんでした。しかし、諸問題の解決に時に苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったことを考えると、恐らく内政面でも辣腕であったことが伺えます。
現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)・検地実施(諸家単一文書)・全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施した記録が残っています。また、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなど広い政策も行いました。このころ豊臣の本姓を与えられています。
そして、従二位、大納言の官位を得たことから、大和大納言と称されるようになりました。
壮年期から晩年へ
天正14年2月8日(1586年3月27日)、『多聞院日記』には摂津国有馬湯山へ入ったと記録が残っています。
どうやらこの頃から体調が崩れやすくなったという言い伝えが残っており、この後も数度にわたって湯治に訪れていたようです。また、湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れたことや、本願寺顕如からも使者が訪れていることが記録に残っています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。