豊臣秀次(2/2)秀吉に人生を翻弄された男

豊臣秀次

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人物記
名前
豊臣秀次(1568年〜1595年)
出生地
愛知県
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清洲城

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近江八幡山城跡

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関係する事件

秀吉と秀次両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好でした。『駒井日記』によると、文禄3年(1594)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食していたといいます。このような仲睦まじい様子が、翌年事件が起こる直前まで記され、何事もなく過ごしていたのも事実のようです。

秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりでしたが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷が多く築かれるようになり、むしろ秀次を監視するような恰好になります。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしますが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対、翌年3月まで延期されます。

秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭し、秀次には暗雲となったようです。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されていますが、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかという説もあります。

秀次の最期

文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がります。

しかし、7月3日、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近など秀吉の奉行衆が訪れ、巷説の真偽を詰問し、誓紙を提出するよう秀次に要求しました。

秀次は謀反の疑いを否定、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとします。

7月5日、前年の春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成は秀吉に報告。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じています。

しかし、この報告の内容は事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようです。
7月8日、再び前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて要請。

秀次は伏見に到着しますが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれます。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」とだけ告げられた秀次は、すぐに伏見を出立。

10日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となりました。この出家の際に道意と号し、以降は豊臣の姓から豊禅閤ほうぜんこうと呼ばれることがあります。

同じころ、秀次の妻や側室・侍女や乳母・子ども達が8日の晩に捕えられ家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられますが、11日に丹波亀山城に移送されました。12日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図、監禁に近い厳しい指示を出しています。

7月13日、四条道場で秀次の家老の白江備後守が切腹、その妻子も後を追って自害しました。同じく嵯峨野二尊院で熊谷直之が切腹。摂津国の大門寺で木村常陸介(重茲)が斬首、財産没収。重茲の妻子も後に三条河原で磔にされたのです。

7月15日、高野山に福島正則・池田秀雄・福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に切腹の命令が下ったことを告げます。秀次は、雀部重政の介錯により切腹して果てました。享年28。法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされています。

秀次亡き後の悲劇

7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分。それでも秀吉はこれで満足せず、妻や側室・そば仕えや子どもたちも根絶やしにすると決めます。

7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたため、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをしたのでした。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず子どもたちが処刑され、次に最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であったことから秀吉の北政所・ねねが助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑されました。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名]の全員が斬首され、子どもの遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったと言われています。さすがにこの非道な行いは、民からも大きな罵詈雑言が浴びせられたと伝わります。

最も悲劇的だったと言えるのは、駒姫です。
最上義光は娘(駒姫)を秀次の側室に差し出していたことで咎められました。駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の下にはまだ嫁いでおらず、前田利家や徳川家康らが助命嘆願したが聞き入れられず、ほかの妻や子どもたちと同じように三条河原で処刑されたのでした。これが憐れであるというので、義光は許されましたが、あまりにも気の毒であったと言えるでしょう。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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