佐竹義重(2/2)鬼義重

佐竹義重

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人物記
名前
佐竹義重(1547年〜1612年)
出生地
茨城県
関連する城・寺・神社
久保田城

久保田城

関係する事件

佐竹家の与力大名であり佐竹義重の妹が嫁いだ宇都宮家が豊臣家により取り潰されます。宇都宮家の主人筋であった佐竹家も処分の可能性がありましたが石田三成の取りなしで難を逃れました。佐竹家当主であった義宣は石田三成との結びつきを強くします。

慶長3年(1597)、豊臣秀吉が死去し徳川家康と石田三成との確執が深くなっていきました。

慶長5年(1600)5月、徳川家康は会津の上杉景勝征伐を決めます(会津征伐)。佐竹家は関東常陸国を領していたので徳川家に従いました。

ところが7月、関東に到着した徳川家康を見て大坂で石田三成が反徳川を目的に立ち上がります。当主の義宣は石田三成と親しかった事から石田方に付くつもりでした。義宣は独断で上杉家と密命を結びます。しかし隠居していた佐竹義重は時流を見て徳川方に付く事を主張します。家中の多くも徳川方に付く事を主張したため意見を統一できず、佐竹家は徳川、石田の双方に付かず動きませんでした。

こうして戦いに参加しないまま関ヶ原の戦いは徳川家の勝利、戦い直後から佐竹義重は徳川家に戦勝の祝いを出し、参加しなかった事への謝罪を送るなど徳川家との融和を図ります。ですが当主の義宣は1年以上常陸国を動かず、慶長7年(1602)4月にようやく上洛し徳川家康に謝罪しました。

5月、佐竹家は常陸国から出羽国久保田へ領地替えを命じられます、54万石から20万石への減封でした。

不慮の死とその後の佐竹家

慶長7年(1602)佐竹家は常陸国から出羽国秋田郡(後の久保田藩)へ国替えを命じられました。

新領地では旧領主の家臣達が反乱を起こす気配を見せていたので、当主であった佐竹義宣は土崎湊城へ入城し所領の北側を、隠居をしていた佐竹義重は六郷城へ入り所領の南側を統治します。

ところで大幅に領地を減らされ転封した佐竹家。佐竹家では国替えになるタイミングから相当の覚悟を持っていました。義宣は家老の和田昭為へ出した手紙の中で、譜代の家臣は以前のような扶持(給料)を与えられないこと、常陸国から出羽国へ移る時には100石以下の給人は新領地へ連れていけないことを述べています。更に家老の代替わりの際に新たな家臣であった渋江政光を家老に登用しようとすると譜代の家臣達は憤慨しました。憤慨した家臣達は渋江政光、そして当主の佐竹義宣を暗殺しようと企てます。ところが企みは露見し計画に参加していた譜代の家臣達は粛清されました。佐竹義重は一部の家臣達を嘆願し、なんとか事を丸く修めようと試みました。(川井事件)

こうしてどうにか新領地での統治を行っていた佐竹義重でしたが慶長17年(1612)4月19日、狩猟中に落馬し亡くなりました。享年66。

佐竹義重は常陸国で生まれ、東北の伊達政宗や関東の北条氏政などと覇権を争いました。隠居後には関ヶ原の戦いに巻き込まれ出羽国へ国替えとなりましたが、手堅い統治を行い出羽国久保田藩の礎を築きました。
佐竹家はこの後も出羽国を統治し明治を迎えることになります。

大久保鹿島神社の流鏑馬

茨城県日立市にある大久保鹿島神社では古くから旧暦の9月29日(現在は10月29日)に流鏑馬神事が行われています。

鹿島神社は佐竹氏の信仰が篤く、佐竹義重の時代に居城太田城北の守りとされ、流鏑馬神事を奉納したとされます。最古の記録では天正12年(1584)ですから400年以上続いている神事です。

当日は流鏑馬を行う八幡太郎(河内源治の祖、源義家の別称)の前を子供武者が歩き、更に法螺貝を吹く役が前を先導します。八幡太郎は河原子海岸で潮垢離(海水で清める)を行い、次に下孫鹿嶋神社でお祓いを受けた後に、流鏑馬を行います。流鏑馬に使用される馬は以前には農耕馬を使用していましたが、現在では乗馬クラブの馬を使用し馬を走らせず馬上から確実に当てるスタイルです。

古くから伝わる神事を行い、恵みの秋を感じる一日となっています。

太田城(おおたじょう)

太田城は茨城県常陸太田市にあった日本の城で、「関東七名城」の1つとされます。平安時代、藤原秀郷の子孫である藤原通延が築城したのが始まりと言われています。

ところが佐竹氏の2代当主であった佐竹隆義が太田城主藤原通盛を屈服させ太田城を奪います。佐竹隆義が太田城に入城する日、鶴が城の空を舞ったことから別名「舞鶴城」とも呼ばれるようになりました。そこから470年間、太田城は北関東の雄であった佐竹家の居城となりました。

佐竹義重の子、佐竹義宣は太田城から水戸城へ居城を移し、関ヶ原の戦いの後に秋田へ転封となります。その後、水戸徳川家が興ると一国一城令もあり太田城は廃城となりましたが一部が残され「太田御殿」と名が代わり、水戸藩の附家老の中山氏が管理しました。

明治時代に入り国から町の有氏に払い下げられ土塁を崩し、堀を埋め宅地となりました。 
太田城の本郭は現在の太田小学校一帯,二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯,三の郭は栄町の大半で,太田城の名残として若宮八幡宮の境内に「太田故城碑」が建てられています。

通庵佐竹公館址碑(つうあんさたけこうかんしひ)

佐竹義重終焉の地、六郷城本丸跡には義重を偲んで顕彰の碑が建てられています。明治の中盤に六郷城本丸跡に石碑を建てる計画が始まり、明治終りに碑の内容が作成されました。そして明治44年(1911)9月19日に義重没後300年の祭りが行われ、大正7年に碑は建てられました。この石碑の裏面には義重の半生が書かれていますが、後半に以下のようにあり要約すると以下のようになります。

「義重は、六郷村が肥沃、水も清らかであるのを気に入り隠居の地とした。ところが武器・兵員が備わっていないうちに、旧領主の残党が土民一揆を扇動して襲いかかってきた。突然だったので容易に防御しきれないが、領民と僧侶が先を競って立ち上がり奮戦してこれを敗走させた。義重が領民や忠実な家来を大切にしていたからである。今(明治期)から三百年も昔のことというのに、村民の追慕は衰えず碑を建てることにした」
如何に佐竹義重が隠居後も善政を行ったかが分かる一例です。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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