佐竹義重(1/2)鬼義重

佐竹義重

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人物記
名前
佐竹義重(1547年〜1612年)
出生地
茨城県
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久保田城

久保田城

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平安時代の終わりから常陸国(現在の茨城県)に1つの大名がいました、佐竹家です。戦国時代、この佐竹家の当主に就いたのが佐竹義重でした。義重は南の北条氏政や北の伊達政宗と争いながら常陸国を統一していきます。ところが関ヶ原の戦いで佐竹家は常陸国から出羽国へと国替えを命じられました。今回は「鬼義重」とも呼ばれた知勇兼備の大名、佐竹義重について見ていきたいと思います。

義重の生まれた佐竹家

佐竹義重を輩出した佐竹氏。
佐竹氏は平安時代、清和源氏の源義業が常陸国(現在の茨城県)久慈郡佐竹郷に土着し、始まります。

源義業の長男である昌義は「源」から「佐竹」へ姓を改め佐竹昌義と名乗り、これが佐竹氏の祖となりました。平安時代の終わり、源平の戦いでは平家に属して源頼朝に抵抗し勢力を落とします。

鎌倉時代が終り南北朝時代に入ると足利氏について北朝方に属し常陸国守護職に任じられ北関東に一定の勢力を誇りました。この佐竹氏に義重は生まれます。

家督相続

佐竹義重は天文16年(1547)、常陸国の佐竹義昭の子として生まれます。幼名は徳寿丸。

義重が生まれた頃に父の義昭は佐竹家の家督を継ぎ、佐竹家内部の内紛を鎮め常陸国北部を勢力下に置きます。戦国時代中期、常陸国は北部の佐竹家、常陸国水戸城主を中心とした中部の江戸家、常陸国筑波郡(現在の茨城県つくば市)を中心とした南部の小田家とに分かれていました。

永禄7年(1564)越後国(現在の新潟県)の上杉謙信と佐竹義昭は小田城の戦いで小田家を敗走させており、佐竹家は勢いがありました。ところが永禄8年(1565)佐竹義昭が亡くなり、義重が家督を継ぎます。代替わりをして佐竹家の勢力拡大は一時頓挫しました。

勢力の拡大と金山開発

父佐竹義昭が亡くなり当主となった佐竹義重。
義重は父の代から連携していた上杉謙信との関係を強めます。こうして外交上の安定を図りながら常陸国南部の小田氏へ侵攻し大半の領土を奪い取りました。

さらに隣国の下野国(現在の栃木県)へも攻め、支配地域を拡大していきます。
ところで佐竹義重はその生涯において戦いに次ぐ戦いを繰り返しました。これだけ軍事行動を行うと費用もかさみます。この費用を賄ったのが金山開発でした。

16世紀に入ると佐竹家は金山の開発を積極的に行い、現在の日立市、常陸太田市、常陸大宮市、大子町、水戸市などに坑道があったといわれており、特に有名だったのが栃原金山(とちはらきんざん)でした。

この常陸国の金山は豊臣秀吉の時代になると豊臣政権の直轄とされたうえで、佐竹家に管理を委託されます。慶長3年(1598)の豊臣氏蔵納目録には,全国から上納された金3397枚のうち221枚7両3朱が佐竹家から献上され、上杉氏,伊達氏についで多かったそうです。

江戸時代に入ると佐竹家は常陸国から出羽秋田郷へ国替えを命じられますが、徳川家に接収される事を恐れた佐竹家は坑道を塞ぎ佐竹家の移転とともにその役を終えました。

佐竹義重は最新の治金を導入する事で金を採掘し関東一と言われる鉄砲隊を備えたり、外交を行う資金として活用しました。

北条氏政との抗争

佐竹義重は着々と常陸国とその周辺を攻略していきます。
ところで関東は相模国の北条氏政が勢力を広げ、佐竹などの関東諸勢力は北条家と対立しました。
佐竹義重は周辺の勢力と婚姻関係を結び、結束を強めます。更に中央の羽柴(豊臣)秀吉と関係を築くなど優位に立とうとしました。

この佐竹を中心とした北関東の大名に対し北条家は、会津蘆名家など佐竹家の北側の大名と同盟を結び対抗しました。

1570年代の北関東は佐竹家を中心とした同盟勢力と北条家を中心とした北条、蘆名などの勢力が抗争を繰り返しました。佐竹義重は度々北条家との合戦に望み、愛刀の「八文字長義」で北条家の侍を真二つにし、7人を一瞬で斬り伏せるなど勇猛に戦い「鬼義重」「坂東太郎(東国にある日本一の大河という利根川の別称)」と勇名を轟かせました。

ところが天正8年(1580)の頃から抗争の中心が変わります。この年、蘆名家の当主蘆名盛氏が亡くなります。盛氏の嫡男、蘆名盛興はそれより早く亡くなっており後を継ぐ者がいませんでした。そこで養子を取り当主に据えます、蘆名盛隆です。盛隆が蘆名家当主になると方針も変わり、佐竹義重は蘆名家居城の黒川城を訪れ同盟を結びます。

こうして北の蘆名、南の北条に挟まれていた佐竹家でしたが北の脅威が無くなりました。ですが蘆名家の混乱はまだ続き、周辺の奥州、北関東の大名を巻き込みます。

伊達政宗との抗争

蘆名盛隆が当主となった4年後、盛隆が家臣によって暗殺されます。後を継いだのは盛隆の嫡男、生後1ヶ月の亀王丸でした。佐竹義重はこの亀王丸を支持します。

ところが亀王丸は3歳で疱瘡(天然痘)により夭折します。3歳の当主が亡くなった事により、再び当主不在となりました。

そこで蘆名家当主の座を巡り、伊達政宗が推す政宗の弟伊達小次郎、佐竹義重の推す義重次男の佐竹義広を当主にするかで家臣が二つに割れました。結果、親佐竹派が勝ち蘆名家当主は佐竹義広(蘆名義広)となります。ここで佐竹義重と伊達政宗の対立が深くなり、抗争を繰り返しました。

豊臣秀吉への臣従と常陸国統一

天正17年(1589)、佐竹義重の次男で養子に行った蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達政宗に大敗します。この戦いで東北の有力大名の一つであった会津蘆名家は内部崩壊、事実上滅亡します。これを見た諸勢力は佐竹家を見限り、伊達家の側に鞍替えしました。

北は伊達政宗、南は北条氏政、氏直親子に挟まれ佐竹家は窮地に追い込まれます。
この年、佐竹義重は実権を握ったまま義重嫡男の佐竹義宣に家督を譲りました。ところが翌年、佐竹義重は大攻勢に出ます。

天正18年(1590)、以前より関係をもっていた豊臣秀吉が関東北条家を攻めます(小田原征伐)。佐竹義重は義宣とともに参陣し、石田三成の忍城攻めに参加しました。その後、秀吉の奥州仕置にも従った事から常陸国統一のお墨付きを得ます。常陸国中部を支配していた江戸重通を始め、武力と謀略で次々と常陸国の国人領主(小領主)たちを排除していき常陸54万石を統一しました。

関ヶ原の戦いと出羽国移封

慶長2年(1597)10月の話です。

佐竹義重の記事には続きがあります

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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