北条氏直(2/2)関東北条家最後の当主

北条氏直

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人物記
名前
北条氏直(1562年〜1591年)
出生地
神奈川県
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関係する事件

7月11日、北条氏政、氏照の切腹が行われ、12日には氏直の高野山蟄居が決まります。21日には家臣30名と共に氏直は小田原を出発、8月12日には高野山に到着しました。ここから「見性斎」と称し家臣達と共に謹慎生活を送りまし。

年が変わり天正19年(1591)、北条氏直は徳川家康に秀吉への口利きを依頼するなど赦免活動を行います。活動の甲斐もあり5月には謹慎を許され大坂で屋敷を与えられました。

8月19日、氏直は豊臣秀吉と対面、河内国と関東に領地を与えられ1万石の大名として復活します。小田原にいた督姫も大坂に呼び寄せ、北条氏直は豊臣臣下の大名として活動していくはずでした。ところが同じ年の冬、氏直は病気にかかります。『多聞院日記』によると疱瘡(天然痘)とされ、11月4日に亡くなりました、享年30。
戦国の初めに誕生した北条家は戦国の終わりと共に一端、終焉を迎えました。

北条氏と狭山藩

徳川家康の次女督姫と婚姻を結んだ北条氏直。二人の間には娘が出来ましたが、跡を継ぐ男子は誕生しませんでした。そこで氏直の従兄である北条氏規の子、北条氏盛を養子に迎えます。そして高野山に氏直が謹慎すると、実父の北条氏規と共に養子の北条氏盛も高野山で謹慎しました。

その後、謹慎を解かれた氏直は天正19年(1591)に亡くなり関東の後北条氏嫡流は途絶えます。養子であった北条氏盛は氏直の遺領であった下野国(現在の栃木県)4千石を相続します。更に慶長5年(1600)、実父氏規も亡くなると実父の遺領であった河内国(現在の大阪府東部)狭山の7千石も引き継ぎます。こうして合計1万1千石を引き継いだ北条氏盛が江戸時代に大名となり狭山藩の初代藩主となりました、これが後北条氏の続きとなります。狭山藩は北条氏12代に渡って統治され、明治時代を迎えました。

戦国時代初めに興った関東の後北条氏は戦国時代の終わりには一端関東を追われましたが、河内国狭山藩を治め武士の時代の終わりまで続きました。

北条氏直の墓

金湯山早雲寺
神奈川県箱根町の金湯山早雲寺。一説には金湯山早雲寺は初代早雲の遺言で2代目北条氏綱が京より僧を招いて大永元年(1521)に創建されたと言われます。
小田原征伐の時には一時、豊臣秀吉の本陣が置かれるなどしましたが、石垣山城が建つと移動し寺を含む一帯は焼き払われました。
江戸時代に入ると寛永4年(1627)、菊径宗存により再建。寛文12年(1672)、狭山藩5代目当主の北条氏治が北条早雲の命日にあたる8月15日に当寺の中に北条氏直を含む当主たちの供養塔を建て今日に至ります。
高野山北条家墓所
和歌山県高野山にも北条家の墓所があります。高野山には多くの戦国大名の墓がありますが、北条家は高野山奥之院の一の橋と中の橋の中間付近、少し参道から外れ山手に入った所にあります。「小田原北條家墓所」という目印の先にひっそりと建っている宝篋印塔です。北条氏直の墓は天正18年ないし19年(1590、1591)に建たれたようで氏直が生前に建てたもののようです。

広島県海蔵寺にある氏直の墓

さてここまで見てきた北条氏直。氏直には一つ不思議な話があります。

高野山や関東にある氏直の墓。ところが広島県の海蔵寺にも氏直の墓(宝篋印塔)があります。何故、縁も所縁もない広島に氏直の墓があるのでしょうか。

地元(現在の広島市西区草津町)の伝承によれば、高野山で謹慎していた氏直は山を逃げ出し安芸国(現在の広島県)に辿り着き毛利家家臣であった児玉就英に匿われ亡くなった後に墓を立てられた、と言われます。

ところで伝承以外にも別の説があります。そもそも寛文三年(1663)に作成された『芸備国郡志』には氏直の墓に関する記述がある事からも江戸時代初期には既にあったのが分かります。つまり氏直のものとされる墓は確かに1663年以前に造られた事になります。さて家臣達と共に高野山で謹慎した氏直。この氏直と謹慎した家臣達の中に北条氏忠がいました。北条氏忠は後北条家2代目北条氏綱の孫に当る家臣でした。この北条氏忠は高野山での謹慎を解かれると家族と共に中国地方の毛利輝元に預けられました。

その後、氏忠は安芸国で亡くなりましたが娘が毛利家家臣と結ばれ伊勢氏(後北条家の前身の姓)を名乗るようになりました(この伊勢氏は明治維新後、北條姓を名乗る様になります)。毛利家は関ヶ原の戦いで敗れると安芸国などを取り上げられ、長門周防国(現在の山口県)に領地を減らされます。広島市の海蔵寺にある北条氏直の墓は安芸国にいた北条氏忠(或いはその家族)が旧主を偲んで建てたものではないか、と考えられています。

室町時代の関東に関して書かれた『北条記』の中に「五世の氏直君(北条氏直)はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった」とあるように、当主として穏当ではあったようですが戦乱の世では人をまとめるのに苦労したようです。ですが亡くなった後も家臣により墓を立て供養してもらえるのは、それだけ慕われていた殿様ではなかったのでしょうか。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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