織田信雄(2/2)信長亡き後の織田家当主

織田信雄

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人物記
名前
織田信雄(1558年〜1630年)
出生地
愛知県
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清洲城

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松坂城

松坂城

関係する事件

天正11年(1583)9月、羽柴秀吉は大坂城を築城し諸大名に号令する根拠地とします。この頃から織田信雄の扱いも軽くなり、羽柴秀吉と織田信雄の関係は悪化しました。秀吉は信雄の家臣の切り崩しを謀り、信雄も東海道の徳川家康と同盟を結びます。天正12年(1584)3月、羽柴秀吉と徳川家康が戦闘に入ります(小牧・長久手の戦い)。戦いは徳川家有利に進みましたが秋の終わりまで断続的に続きます。秀吉は不利を悟り自らに有利な条件で講和を結ぼうと考えましたが不調に終わります。それでも諦めきれない秀吉は織田信雄に絞って講和を進め、戦いに疲れていた信雄も応じました。この後も羽柴秀吉と徳川家康の睨み合いは続きましたが、最終的に家康も秀吉政権の下に入りました。

豊臣政権下での処遇と追放

豊臣秀吉と和睦した織田信雄。織田家の当主という立場には収まりましたが、豊臣政権の下に入る事になります。しかし秀吉も粗略には扱わなかったようで、天正15年(1587)11月には内大臣に推されます。これは関白である秀吉に次いで武家の序列2位、秀吉の弟秀長や実力者であった徳川家康より上位に位置します。以降内大臣の地位にある間は「尾張内大臣」「尾張内府」と呼ばれました。

こうして豊臣政権の下にあり領地は尾張国を中心に100万石近く、官位は内大臣にあった織田信雄。この織田信雄が没落します。

天正18年(1590)関東の北条家を討伐した豊臣秀吉は(小田原征討)、関東の地を徳川家康に与えました。そして旧徳川家の領地を織田信雄に与え、それまでの尾張国の旧領を取り上げる事に決めます。ところが先祖伝来の地である尾張国に執着した信雄は固辞します。すると秀吉は激怒し織田信雄を追放しました。一時、東北や四国に幽閉された信雄は最終的に剃髪し(このころより常真 ⦅じょうしん⦆という号を使用します)豊臣秀吉の御伽衆となりました。こうして秀吉の御伽衆として豊臣政権を過ごします。

江戸幕府での扱いと晩年

慶長3年(1598)豊臣秀吉名が亡くなります。秀吉が亡くなると武家の筆頭であった徳川家康と豊臣政権の奉行石田三成が対立。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こりました、織田信雄は石田三成の側に付きました。結果、徳川家康が勝利し信雄は隠居領を取り上げられ大坂で隠遁生活を送ります。

さて徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利すると天下人となり征夷大将軍となります。しかし織田信雄が隠遁している大坂には、豊臣秀吉の跡継ぎである豊臣秀頼がいます。秀頼の母親淀君は信雄の従妹に当り、豊臣家は織田家の当主であった織田信雄を自陣営に引き込もうとします。徳川家康も織田家当主であった信雄が豊臣家に入ると、過去の影響力を行使されて豊臣家の力が大きくなると恐れます。そこで家康は信雄に領地を与える事を約束して、大坂城入城を妨げました。

元和元年(1615)大坂の陣が起こると豊臣家は徳川家に滅ぼされます。織田信雄は大和国(現在の奈良県)宇陀郡と上野国(現在の群馬県)甘楽郡など領地を与えられました。しかし世を捨て趣味に生きていた信雄は京に住み続け、領地には息子や家臣を派遣し管理させました。

こうして織田、豊臣、徳川と時代に翻弄された織田信雄は京において自適な隠居生活を送り晩年を過ごします。
寛永7年(1630)4月30日、織田信雄は京都北野邸で死去、享年73。遺体は織田家の菩提寺のある京の大徳寺総見院に葬られます。また上野国甘楽郡小幡の崇福寺、伊勢国北畠家の廟があった奈良県室生寺にも分骨され、滋賀県摠見寺にも供養塔があります。
寛永9年(1632)、信雄の4男織田高長は僧を招いて徳源寺(奈良県宇陀市)を創建し信雄の菩提寺としました。

南伊勢の田丸城

織田信雄は北畠家に養子として入り、伊勢国を統治します。最初は大河内城に入りましたが天正3年(1575)に廃城とし、田丸城へ移ります。

田丸城は伊勢国の戦略的要衝として南北朝時代に築かれたと言われます。この城に織田信雄が入ると、三層の天守を備えた近世城郭として生まれ変わりました。

ところが天正8年(1580)、信雄の同朋衆(主人に僧体として仕え雑務や芸事を行う)の玄智が金を盗もうと火薬庫に放火し、捕らえられ処刑されました。しかし田丸城は焼失、信雄は松ヶ島城(松島城)を築き移ります。
この後、江戸時代に入ると田丸城は紀州徳川家の支配下に入り家老の久野宗成に与えられ田丸藩6万石の城として明治まで続きました。

明治時代に入ると田丸城の建造物はほとんど破却されましたが、天守台と石垣、内堀、外堀、空堀が遺構として残っています。平成29年(2017)には続日本100名城に認定されました。現在ではかつての城内に玉城町役場や町立玉城中学校があり、桜が多く植えられ花見客で賑わう場所となっています。

小幡藩と楽山園

元和元年(1615)7月、徳川家康は大和国宇陀郡に3万石、上野国甘楽郡などの2万石、併せて5万石を織田信雄に与えました。信雄はすでに世を棄てて京で自適な生活を送っていた為、3男信良を名代として上野国に派遣し、ここから織田家7代続いた小幡藩となります。

ところが京で生活を送っていた織田信雄は風光明媚な庭園を築く計画を思いつき、前田、池田、浅野など諸大名から莫大な寄付を集め、京から茶人を派遣して造園させます。面積1200坪(3960平方メートル)の敷地に樹木や名石を並べ、池泉回遊式の茶室を4つ設け、周囲の山々を借景とした贅沢な庭でした。信雄はこの庭に論語「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」から「楽山園」と名付けましたが、造園に7年を擁し自身が見る事はありませんでした。楽山園は現在、群馬県唯一の大名庭園として県内初の名勝指定庭園に国から指定されています。

群馬県甘楽町の小幡さくら祭り

小幡さくら祭りは昭和60年から毎年、3月下旬の日曜日に開かれる甘楽町最大のお祭りです。織田信雄より7代統治されてきた事を由来とし行われています。当日は馬上の大将を先頭に槍隊、侍女、鎧武者などに扮した町民300人が楽山園で出陣式を行い、そこから八幡神社で祈願式、織田宗家の墓がある崇福寺で戦勝報告、甘楽総合公園多目的広場で凱旋式を行います。

凱旋式の行われる甘楽総合公園多目的広場では火縄銃の実演やアトラクションなども行われ桜の下、春の訪れを感じながら人々は楽しみます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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