三法師(織田秀信)(1/2)信長の孫

三法師(織田秀信)

三法師(織田秀信)

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人物記
名前
三法師(織田秀信)(1580年〜1605年)
出生地
岐阜県
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戦国時代、戦国武将は戦以外にも病気や裏切り・暗殺など様々な形で命を落としていました。当時、畿内を抑えて天下統一に近づきかけた織田信長も、明智光秀の謀反によって本能寺で切腹、これにより大きく時代の流れは変わっていきます。それは、三法師またの名を織田信秀も同じでした。信長の孫に生まれたものの、次代の流れに大きく翻弄されることになった彼の生涯を、今回は紹介します。

織田信長の孫として誕生

天正8年(1580)、織田信長の息子・織田信忠の長子として誕生しました。幼名は三法師です。母親については、諸説ありますが徳寿院であることは間違いありません。しかし、その素性については塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫だとも言われています。もし、母が松姫であれば武田信玄の外孫ということになります。

『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫の娘であるという記述もあり、高野山悉地院過去帳は母方の祖母を進藤氏としていることから、進藤氏の娘の可能性もあります。

天正10年(1582)の本能寺の変の際は、父・信忠の居城である岐阜城に在城していましたが、前田玄以、長谷川嘉竹らに保護されて清洲城へと避難しました。

同年、信長の重臣たちが集まって清洲会議が開かれ、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の周旋により、わずか3歳で織田弾正忠家の家督を相続し、直轄領として近江国中郡20万石を得ます。しかし、まだ幼く統治できないため、代官は堀秀政が務めました。

この際の決定で安土城に移ることになりましたが、叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれました。これを発端として、秀吉と信孝は関係が悪化し、対立することになります。しかし、信孝が秀吉に敗れて降伏した後は、一応の整備がなされた安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄(織田信長の次男)の後見を受けました。

天正12年(1584)に羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、三法師は安土城から近江国坂本城、次いで京都の秀吉の下へ移されます。同年11月に秀吉と信雄が講和をする(小牧・長久手の戦い)と、政治的立場を逆転させた豊臣秀吉(羽柴秀吉)は信雄に対し織田家の家督を正式に認め、三法師は再び坂本城に移さました。

元服と家督の正式な相続

天正16年(1588)、9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官されました。4月の後陽成天皇の聚楽第行幸を記した『聚楽亭行幸記』には、三郎侍従秀信朝臣の名が記録されています。このとき列席した侍従・少将の官位を持つ大名の中で席次は5番目で、前田利家や豊臣秀勝、結城秀康らに次ぐ序列でした。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐において、『寛政重修諸家譜』の堀秀政の項には秀信が六番隊として参陣し、左備えの大将である秀政の指揮下で鉄砲隊を供出して戦ったとありますが、まだ10歳程度だったことを考えると恐らく虚偽であろうと考える説が主流となっています。

小田原征伐後に、関東地方へ移封となった徳川家康の旧領への移封を拒絶した織田信雄が改易されて、その嫡男・織田秀雄が大名として取り立てられて織田家の宗家当主の地位も継ぐことになりますが、その後、文禄元年秋に織田秀信が岐阜城主となると、改めて秀信を宗家当主に据えたのではないかと考えられています。

岐阜中納言と呼ばれるように

文禄元年(1592)、秀信は(陣場は割り当てられていたものの)当初、文禄の役に出陣する予定はありませんでした。しかし、同年9月9日に岐阜羽柴家の豊臣秀勝(岐阜中納言)が没すると、秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えています。

この際、秀信は秀勝の養子として継承したと『勢州軍記』には記されています。
これに伴って、長岡忠興・遠藤胤基・遠藤慶隆ら九番隊と、済州島で在陣中に没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、秀信の家老の百々綱家が出陣して、急遽、これを率いることになりました。

晋州城攻撃計画では、美濃衆からは釜山で普請を行う6,000人の動員が予定されていましたが、実際の5月の晋州城攻防戦で動員されたのは4,018人で、(済州島から)渡海して包囲部隊に編入されています。

家臣団には津田元綱など信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見されますが、このほか池尻城将を務めた飯沼長実など斎藤家旧臣、斎藤正印軒や斎藤徳元など斎藤一族、武藤助十郎など土岐一族も見られ、美濃衆を家臣団として再結集した様子が窺えます。蒲生氏郷の庶長子・蒲生元時(生駒伊右衛門)、剣豪と言われる足達庄蔵なども秀信に仕えました。

12月、秀信は鏡島湊を築き、免許状を与え遡上荷船の最終湊の地位を保障しています。文禄2年(1593)3月6日、『松浦古事記』によると、秀信は寺西正勝らを供に引き連れ、秀吉のいる名護屋城に陣中見舞いと称して参陣したとあります。

同年10月3日には秀吉に従って参内。このときすでに羽柴姓も贈られていて、岐阜中納言として史料には記述が見られます。このことから従三位・中納言に昇叙・任官していたことが推測されます。

文禄3年(1594)正月には新公家衆の一人として参内。『駒井日記』の同年2月の記事には「岐阜中納言様御内室」との記述があり、中納言叙任と同時期に正室を迎えたことが窺えます。5月23日、名護屋城にて明使・沈惟敬が秀吉に謁見した際に、徳川家康・前田利家・秀信・小早川秀秋・豊臣秀保・上杉景勝の6名は同室で伺候していました。

同年、祖父・信長に倣って鵜飼いを保護したことなども伝わっています。秀信時代、鵜飼舟12艘があったとする同地の記録が今日に伝わっており、鵜飼いの保護は、後の岐阜領主にも継承されました。

文禄4年(1595)正月には関白を継いだ豊臣秀次に従って参内しています。同年3月8日には秀吉が聚楽第に秀次を訪問した際、兵を率いて道中の警備を務めています。この時どちらに従っていたのかは不明ですが、秀次事件に連座していないことを考えると、秀吉付きに復していたのではないかと考えられます。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いに際しては、1599年から戦支度を進めていた節が見られます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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