池田恒興(2/2)織田信長の乳兄弟

池田恒興

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人物記
名前
池田恒興(1536年〜1584年)
出生地
愛知県
関連する城・寺・神社
犬山城

犬山城

国宝天守
大垣城

大垣城

関係する事件

秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでも徳川方につき、戦後の褒賞では播磨52万石を与えられ、姫路藩主となり、姫路城に現在に残る大規模な改修を行ったことでも知られます。

1603年(慶長8年)、輝政の次男忠継は、兄利隆の監国で備前28万石を与えられ、岡山藩主となっています。さらに1610年(慶長15年)には、輝政の三男忠雄に淡路一国6万3千石が与えられ洲本藩主となる。1613年(慶長18年)、輝政が没すると、播磨の遺領は長男の利隆が相続し、10万石分だけ弟の忠継に分与されました。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となりました。他に池田長吉(輝政の弟)は鳥取6万石を領しています。

利隆の没後、嫡男光政は幼かったことから播磨姫路藩42万石から因幡・伯耆二か国の32万石に移封となり鳥取藩主に。長吉の長男・長幸は鳥取から備中松山へ移されました(長常のとき改易、長信が井原1000石の旗本となっています)。

備前は忠継の没後、弟の忠雄が家督を継ぎ岡山31万5200石(分与と赤穂藩の2度の改易で減封)を領し、淡路一国6万3千石は没収されました。しかし、忠雄の没後、嫡男光仲が幼少であったことから鳥取藩の光政と入れ替えられています。以後、光政系が岡山藩、光仲系が鳥取藩を相続しました。

幕末の岡山藩主池田茂政は「尊王翼覇」を唱えて朝廷、幕府、長州藩の間を取り持つ国事周旋に奔走していましたが、茂政の実兄徳川慶喜が将軍に就任すると討幕に踏み切れず、支藩の鴨方藩主章政を藩主に代えて征東軍に参加しました。また鳥取藩も慶喜の弟池田慶徳を養子に入れていた関係で藩論の統一に苦労しますが、戊辰戦争では官軍に属して明治維新を迎えました。その後も、華族として池田家は存続したようです。

犬山城

犬山城は、尾張国と美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」(愛知県犬山市(旧丹羽郡))にあった城で、天守のみが現存し江戸時代までに建造された「現存12天守」の一つでもあります。

また天守が国宝指定された5城のうちの一つです(他は姫路城・松本城・彦根城・松江城)。城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されています。

日本で最後まで個人が所有していた城(2004年まで個人所有)でもしられています。
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城で、別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられています。

前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城でもあり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となりました。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点にもなっています。

江戸時代には尾張藩の付家老の平岩親吉が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城としました。現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがありますが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろです。

2004年(平成16年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城でしたが、同年4月1日付けで設立された財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)に移管されています。2006年(平成18年)4月6日には、日本100名城(43番)に選定されました。犬山市はまた、失われた建造物の木造復元や石垣、堀、土塁を調査して復元する計画も立てています。

兵庫城

兵庫城は、兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国八部郡兵庫津)周辺にあった城です。尼崎藩時代には兵庫陣屋と呼ばれて奉行が置かれ、明治時代には兵庫県庁がありました。

神戸港の西に兵庫港という港があり、兵庫港は江戸時代まで良港として栄えた兵庫津の跡で、また平清盛が遷都とした福原京があります。

南北朝時代には戦いの中心となり、また北側には山陽道が通り、海陸の集散地でもあり交通の要衝でもありました。

兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間だけで、江戸時代には陣屋となっています。残念ながら、明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や、近代以降の都市化によって陣屋の遺構は失われ、今では当時の面影が残っていません。

大垣城

大垣城は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。

宮川安定(安貞)が築いたともいわれていますが、実際には築城年代、築城者は特定できていません。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみという簡素なものだったと言われています。
戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭として整備されます。

伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されています。1649年(慶安2年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治にまで残る姿となりました。

1873年(明治6年)に発布された廃城令によって廃城となっていますが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定されました。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲によって天守や艮櫓などが焼失しました。

天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されましたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされています。2008年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言。

2005年、大垣市は、戦後に総堀が水門川や用水路として残る以外の堀が埋められ、計画性の無い開発により主要道路や大垣駅からは天守より高い建物によって見えなくなってしまったとして、昔の大垣城を復活しようと「大垣城郭整備ドリーム構想」という計画を立ち上げました。2006年以来、検討委員会がたびたび開催されているが、計画は具体化していないのが現実です。

2006年(平成18年)、指定管理者制度を導入し公益財団法人大垣市文化事業団が管理運営を開始しますが、2019年(平成31年)4月、指定管理者制度を廃止、大垣市直営施設に戻しています。
2011年(平成23年)2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了。この工事で、戦後の再建時に改変された外観が、史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修されました。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(144番)に選定されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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