池田恒興(1/2)織田信長の乳兄弟
池田恒興
戦国時代、武将にとって心から信頼できる家臣は貴重な存在でした。一族だからと言って信頼できるとは限らず、時には兄弟の間で跡目争いをすることも珍しくありません。織田信長が多くの有能な武将を召し抱える中、乳兄弟として傍にいた池田恒興は貴重な存在でした。信長に小姓として幼少期から仕え、信長の死後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えて長久手で散った池田恒興の生涯を紹介します。
誕生から犬山城主になるまで
天文5年(1536)、尾張織田氏の家臣である池田恒利の子として尾張国で誕生しました。母は養徳院です。父の恒利は早くに死去したといわれていますが、その後母の養徳院は織田信長の乳母となりました。信長は、乳母の乳首を間で困らせる赤子であったと言われていますが、不思議と養徳院にはそのようなことはなかったという話も残っています。真偽は定かではありませんが、後に信長の父の織田信秀の側室となったという言い伝えもあります。
母が信長の乳母であったことから、幼少頃から信長の近くで小姓として仕えるようになります。
野山を駆け回った信長について行くなど、乳兄弟や小姓の関係を通り越し、ある意味本当の兄弟のようだったとも伝わります。
信長の父・信秀が亡くなった後は信長と弟の信勝(信行)との間で争いが起こります。度々2人の間ではいさかいが起きており、信秀亡き後の織田家も信長派・信勝派と別れていました。生母の土田御前は信勝をかわいがり、信勝派だったとされますが、恒興は乳兄弟として育ったこともあり、もちろん信長派でした。
そして弘治3年(1557)、決定的な事件が起こります。謀反を企てた信勝を信長が病と見せかけておびき出し、恒興が殺害したとされています。
こうして織田家内部の争いは終止符を打ちますが、この頃の織田家はまだ尾張全体を統一できていません。永禄3年(1560)5月には、今川義元との間で桶狭間の戦いが起こりますが、絶対的な数的不利と戦経験の差で不利の中、勝てたのは恒興たち家臣団の結束の結果もありました。その後も美濃攻略などで戦い、信長の近くで信頼を得ながら実績を上げていきます。その結果、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍した褒賞として、犬山城主となり1万貫を与えられました。
犬山城主から本能寺直前まで
犬山城を与えられ、信長から厚い信頼を得ていた恒興は、それ以降も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなど信長にとって重要な戦いには必ず参陣して信長を守ります。
天正2年(1574)には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして、東濃の小里城に入りました。
恒興はそのまま織田信忠の与力扱いとなり、天正6年(1578)11月、有岡城の戦いに従軍します。天正8年(1580)7月、摂津国尼崎城・花隈城(花熊城)を落としています(花隈城の戦い)。この戦いの後、伊丹城を与えられましたまた、同年6月、荒木村重の配下だった中西新八郎らを与力としています。
天正10年(1582)3月には、武田信玄亡き後の織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守をまもるよう信長から命じられました。同年5月、備中高松城を攻撃中の秀吉の援軍に向かうことを命じられています。
本能寺の変と山崎の戦い・清須会議
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で主君の信長が重臣の1人であった明智光秀の謀反によって討たれます。秀吉の援軍に向かう予定だった恒興は、6月11日に中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流します。このとき、豊臣秀次を恒興の婿に、次男輝政(照政)を秀吉の養子とすることを約束したとされています。
また、この時恒興は剃髪(出家)し、勝入と号しています。山崎の戦いでは兵5,000を率いて信長の弔い戦に出陣、右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列しました。
織田家の後継を巡って織田家の重臣が集まって話し合われた清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長の嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立しました。
この時、一説では秀吉に「味方してくれた場合は、見返りとして領地の再分配で便宜を図る」という密約があったとも言われていますが、真偽は不明です。
清須会議後、領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得しています。
恒興は大坂に移り、元助は伊丹に、輝政は尼崎に入りました。
天正11年(1583)の羽柴秀吉と柴田勝家がぶつかった賤ヶ岳の戦いには参戦していませんが、同年5月、美濃国内にて織田信孝の旧領13万石を拝領し大垣城に入っています。岐阜城には元助が入りました。
小牧・長久手の戦いと最期
天正12年(1584)、豊臣秀吉の天下人へと着々と突き進む姿勢に不満を持った徳川家康・織田信雄の連合軍と、豊臣秀吉が対立し、小牧・長久手の戦いがおこります。
恒興は、どちらに与するか去就が注目されましたが、結局は秀吉方として参戦することになります。
『池田文書』では、この戦いに勝利が成った暁には尾張一国を秀吉から約束されていたという話も伝わっています。緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(ともに恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国に向かいました。
4月9日、岩崎城を攻撃(岩崎城の戦い)、その後、家康軍と衝突し、元助、長可と共に戦うも討たれてしまいました。恒興は永井直勝に討ち取られたとされています。享年49。法名は、護国院雄岳宗英大居士、家督は輝政が相続しています。
その後の池田家
恒興の次男・輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となます。小牧・長久手の戦い以降、池田家は外様でありながらも徳川家一門に準ずる扱いを受けるなど、徐々に破格の待遇を受けるようになっていきます。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。