松平忠明(2/2)生い立ちや功績・生涯について解説
松平忠明
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道頓堀川を屋形船が通ることもあり、年末年始やイベントごとが行われた後には、若者が飛び込んでしまい他人に心配をかけることもある、あの川です。
実は、この道頓堀を作ったのが、松平忠明と言われています。
当時、市街地の発展には、堀川(人工的に作った川)が必要であると考えられていました。車などの発明品が世に出回っていない時期であったため、水の流れを利用した水運が物流には最適であったからです。松平忠明は家康から絶大な信頼を得ていたため、大阪城周辺市街地の発展を任されていました。そこで行われた、発展工事の中に「道頓堀の建設」があったということです。
当時、松平忠明はこの堀川の建設を「安井道頓(やすい・どうとん)」という人物に命令し、任せていました。つまり、家康からの命令を受け作ったのは松平忠明ということになっていますが、実際に身体を動かして建設していたのは安井道頓ということです。
安井道頓は、この堀川を建設している途中に「大阪夏の陣」で戦死してしまいます。その後は、弟にあたる安井道卜(やすい・どうぼく)が松平忠明に命令を受け、建設を引き継ぎます。
そして、ついに完成したのは3年後の1615年になります。この際、最初に堀川の建設に着手し、作業員たちを指揮しながら尽力した安井道頓の功績を後世まで残すことを目的に「道頓さんが作った堀」ということで「道頓堀」という名前が付いたのです。
ただ、1つ不思議なのは、「安井道頓・道卜は豊臣側の人間であった」ということです。知っている方もいるかもしれませんが、当時松平忠明がいる徳川軍と豊臣秀吉で有名な豊臣軍は対立していました。
普通であれば、豊臣軍の人間にひいきをするようなことは無いのですが、松平忠明は安井らの名前を利用して道頓堀と名付けたのです。
安井らが相当な技術者であったゆえに、着工を指示して工事を行わせたのかもしれませんが、最終的な名称まで相手側に有利な形を選択するというのは、当時では非常に珍しいことです。(豊臣側である安井らの名前がついてしまうと、周辺住民も豊臣側へ流れてしまう可能性があるからです)
このあたりから、松平忠明の人間性の良さや他人を尊重する気持ちが見て取れますね。
道路の建設にも尽力した
松平忠明が市街地の発展を任されていたことは前述しましたが、そのために行ったのは道頓堀を作ったことだけではありません。松平忠明は道頓堀建設中に起きた「大阪夏の陣」で被災した町の復興にも力を入れていました。
その一環として、道路の建設があります。現在の大阪市内を南北に走る道路を「筋(すじ)」東西にのびる道路を「通り(とおり)」と命名し、新しい交通の道を作成したのです。この命名や道筋には「風水」の考え方が用いられており、方角によって様々な呼び方がありますが、現在でも利用されている道路の呼び方も沢山存在しています。
自分が発展を進めていた町が大坂夏の陣に遭い、悲惨な目に遭ったにもかかわらず、手を抜くことなく発展に注力したことが、現在の私達の生活にまで影響を及ぼしているのです。
心斎橋をかけたのも松平忠明
現在でも利用されている心斎橋を建設したのも松平忠明です。現在では繁華街の総称として呼ばれるのが一般的となりましたが、当時は実際に橋がかかっていました。もともと、長堀川という川にかかっていた橋が心斎橋であり、この川も道頓堀を作る際に一緒に作られたものです。
当時は川を挟んで居住地域が分断されており、橋の数が異常に少なかったため、交通の要衝として心斎橋が建設されました。当時は木で作られていたため、かなりの維持費がかかっており、多額の資金が利用されていたとされています。たくさんの人が利用するため、痛みも非常に早く火災・洪水などの被害があったことも報告されています。
現在でも「心斎橋筋」と呼ばれる商店街が残っており、「筋(すじ)」という呼び方は松平忠明が作った道路の呼び方に依存したものとなっています。
「心斎橋」という呼び方は、たくさんの大企業が支店名にしており、今もなお利用されている名称となっています。(三菱UFJ銀行西心斎橋支店・大阪心斎橋郵便局・ユナイテッドアローズ心斎橋店・東急ハンズ心斎橋店・シャネル大丸心斎橋店・ルイ・ヴィトン大阪心斎橋店など)
大阪町民からの信頼も非常に厚かった
大阪夏の陣で町全体が被害を受けた後には、たくさんの町民たちが松平忠明に助けを求めました。そこで、松平忠明は寺院の建設やお墓の建設にも取り掛かり、戦災で苦しんでいた町民たちの願いにこたえようと尽力したことが分かっています。このように松平忠明は一般町民からの信頼も厚く、ただ単に「仕切っている藩主」というわけではなかったようです。藩主に任命された際の11か条の書物の影響があるのかもしれませんし、その通り誰にでも誠心誠意対応していたことが分かります。
- まとめ
- 今回は、松平忠明という人物についてご紹介しました。松平忠明は現在では有名になった「道頓堀」の建設や、大阪城をはじめとした大阪周辺の開拓・発展に大きくかかわった人物で、家康からの信頼も厚くたくさんの功績を残してきました。町民から慕われるほどの素晴らしい人間性・たくさんの武士たちをまとめるリーダーシップを発揮し、歴史に残る偉業を成し遂げたのです。ぜひ、関西を訪れる際には松平忠明がかかわったことも忘れずに観光・生活してみて下さいね。
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- 執筆者 中村砂織(ライター) 北海道在住のライター。普段はサービス業で勤務しながら空いた時間や休みの日に執筆を行っている。旅・グルメジャンルを中心にWEB・紙問わず活動中。大学時代に培ってきた中国語を活かし、中国語でのライティングも担当。 学生時代得意だった歴史に関する記事案件に携わっていきたいと思い、歴史記事媒体を探し中。高校受験時の北海道学力コンクールでは社会科上位100位以上ににはいるほど。