丹羽長秀織田信長に厚い信頼を得た武将

丹羽長秀

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人物記
名前
丹羽長秀(1535年〜1585年)
出生地
愛知県
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小牧山城

小牧山城

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戦国時代、戦国大名にとって武力や知略に長けた家臣を新たに召し抱えることが必須条件となった一方、心から信頼できる譜代となる代々仕えてくれる家臣、そして身内もまた欠かせない存在でした。その中で、丹羽家は織田信長の娘を妻に迎えるなど、深いつながりで結ばれていました。今回は、織田信長の家臣の中でも、地味ながらも重臣格まで上り詰めた、丹羽長秀の生涯について紹介します。

丹羽家とは

丹羽氏は、いくつかの系統がありますが丹羽長秀は児玉丹羽氏です。桓武天皇の皇子良岑安世の末裔で、良岑朝臣を本姓としています。児玉惟行を祖とする武蔵国児玉党の末裔で、丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていませんが、代々尾張国守護の斯波氏に仕えていたと言われています。

丹羽長秀が天文19年(1550)から織田信長に仕えて活躍し、天正10年(1582)に本能寺の変で明智光秀に信長が討たれた後、羽柴秀吉に味方して山崎の戦いで共に光秀を討ちます。長秀は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に越前国・若狭国・加賀国2郡の123万石を与えられて大大名となっています。

天正13年(1585)に長秀が没すると、長男丹羽長重が後を継ぐが、同天正13年(1585年)の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣の軍律違反で、若狭1国15万石に減封。さらに天正15年(1587)の九州征伐の際にも家臣の軍律違反により若狭国を召し上げられ、加賀松任4万石の小大名に格下げされました。しかし、長重が小田原征伐で戦功を挙げたため、加賀国小松城主12万5451石に再び加増。

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで長重は西軍につき、徳川家康により小松城と12万5000石の所領を没収、山城国鳥羽に幽閉されます。

後に江戸・芝浦に移され、将軍に昵近したことで、1603年(慶長8年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名として復帰しました。大阪の陣の戦功で、元和5年(1619)に1万石の加増があり、常陸国江戸崎藩主2万石に、元和8年(1622)にはさらに3万石の加増があり、陸奥国棚倉藩主5万石となっています。寛永4年(1627)にも5万石の加増があり、白河藩主10万700石となりました。

長重の長男・丹羽光重は寛永20年(1643)に陸奥国二本松藩10万700石に転封となり、以後丹羽氏は明治維新まで続きます。
明治以降は華族として、子爵となりその後も子孫が続いて行ったとされています。

誕生から前半期

天文4年(1535)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれます。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったとされています。

成長すると、長秀は織田信長に使えるようになります。天文22年(1553)、梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾りました。弘治2年(1556)、稲生の戦いでは信長方に与し、さらに永禄3年(1560)、桶狭間の戦いでは今川義元の攻撃部隊には入っていないものの、従軍はしていました。

信長が家督を継いだころから仕えており、数少ない宿老核となっていきます。『信長公記』などによると、斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したとされており、永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げています(観音寺城の戦い)。

また、姉川の戦いの直後から、信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていましたが、元亀2年(1571)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となりました。

若狭支配へ

天正元年(1573)8月、越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わります。戦後、義景の母(光徳院)、子の愛王丸を処刑したと「越州軍記」には伝わっています。

9月、長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となりました。若狭国内での当初の大まかな知行宛行は、遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋勝久・熊谷伝左衛門、大飯郡が逸見昌経で、各領主は所領内に独立支配権を持っていたようです。

このころの長秀の家臣には溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力として信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏および旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられました。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担うことになります。

織田家の宿老へ出世

長秀はその後も、高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げていきます。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮して、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げました。

天正7年(1579)、但馬の羽柴秀長(後の豊臣秀吉の弟)とともに、丹波に攻め込み氷上城の波多野宗長に勝利しています。

天正9年(1581)、越中国木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となりました。同年の京都御馬揃えにおいては、家臣の中で一番に入場するという厚遇を与えられています。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っていました。

家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれました。

本能寺の変とその後

天正10年(1582)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられます。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていました。

しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討っています。

本能寺の変に際して、大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいましたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていました。

このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減して、大規模な軍事行動に移ることができなかったと言われています。

長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、その後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無くなったのです。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復しています。

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉による織田家の事業継続を認める形となってしまいました。

秀吉と柴田勝家とが天下を争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。戦後、若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前国(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)および加賀国江沼・能美二郡を与えられ、越前国北庄に入部。石高は約60万石と推定されています。

長秀の最期

天正13年(1585)4月16日、長秀は積寸白(今でいう寄生虫病)のために死去しました。享年51。跡目は嫡男の長重が継いでいます。

『秀吉譜』によると、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃したと書かれています。長秀火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきて、拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあったと言われています。秀吉が言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったとい伝わります。

後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思い、寛政6年(1793)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができましたが、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去したとなっていました。

しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩き、秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死なず、竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだとの言い伝えがあります。

秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあったのです。
外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていました。

どうやら、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当なようです。割腹して二日後に死亡したことから判断すると、いわゆる切腹ではなかったと推察されます。

長秀の人物像

丹羽家と織田家はいわゆる縁戚関係にありました。実際に長秀は信長の兄・織田信広の娘である桂峯院(信長の姪であり。養女でもある)を妻に迎えており、嫡男の長重も信長の五女を娶っているほどです。

さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受けていて、親しい主従関係でもありました。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣にはまったくないことからもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえます。

織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評がありました(『翁草』)。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない大切な存在であるというような意味で言われていたようです。

長秀は方面軍司令の地位にこそ就きませんでしたが、安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事を難なくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど、行政面でも優れた手腕を発揮。軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も修正変わらなかった数少ない家臣だったと言えるでしょう。

清洲会議でも織田家の今後を決める宿老の1人として参加していますが、このころの長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていたようです。

それを裏付ける話として、山崎の戦いの後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようです。

天正3年(1575年)7月、信長が家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられています。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられました。しかし、長秀はこれを一度、「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断ったという話も残っています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。