丹羽長秀(2/2)織田信長に厚い信頼を得た武将

丹羽長秀

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人物記
名前
丹羽長秀(1535年〜1585年)
出生地
愛知県
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小牧山城

小牧山城

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しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討っています。

本能寺の変に際して、大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいましたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていました。

このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減して、大規模な軍事行動に移ることができなかったと言われています。

長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、その後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無くなったのです。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復しています。

清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉による織田家の事業継続を認める形となってしまいました。

秀吉と柴田勝家とが天下を争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。戦後、若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前国(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)および加賀国江沼・能美二郡を与えられ、越前国北庄に入部。石高は約60万石と推定されています。

長秀の最期

天正13年(1585)4月16日、長秀は積寸白(今でいう寄生虫病)のために死去しました。享年51。跡目は嫡男の長重が継いでいます。

『秀吉譜』によると、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃したと書かれています。長秀火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきて、拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあったと言われています。秀吉が言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったとい伝わります。

後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思い、寛政6年(1793)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができましたが、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去したとなっていました。

しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩き、秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死なず、竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだとの言い伝えがあります。

秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあったのです。
外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていました。

どうやら、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当なようです。割腹して二日後に死亡したことから判断すると、いわゆる切腹ではなかったと推察されます。

長秀の人物像

丹羽家と織田家はいわゆる縁戚関係にありました。実際に長秀は信長の兄・織田信広の娘である桂峯院(信長の姪であり。養女でもある)を妻に迎えており、嫡男の長重も信長の五女を娶っているほどです。

さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受けていて、親しい主従関係でもありました。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣にはまったくないことからもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえます。

織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評がありました(『翁草』)。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない大切な存在であるというような意味で言われていたようです。

長秀は方面軍司令の地位にこそ就きませんでしたが、安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事を難なくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど、行政面でも優れた手腕を発揮。軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も修正変わらなかった数少ない家臣だったと言えるでしょう。

清洲会議でも織田家の今後を決める宿老の1人として参加していますが、このころの長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていたようです。

それを裏付ける話として、山崎の戦いの後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようです。

天正3年(1575年)7月、信長が家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられています。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられました。しかし、長秀はこれを一度、「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断ったという話も残っています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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