柴田勝家(2/2)数少ない織田信秀時代からの宿老
柴田勝家
信長の遺領配分でも、河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得ますが、勝家と秀吉の立場は逆転。
清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張、伊賀、南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制がきまりました。
また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しています。
清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争がおこります]。勝家は滝川一益、織田信孝と手を組み、秀吉に対抗しようとしますが、秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫し、懐柔。次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで、屈服させるなど徐々に分が悪くなっていきます。
勝家の最期
天正11年(1583)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙します(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利輝元に庇護されている足利義昭に戦況を説明し、毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利経由で出し背後を突かせようとしていましたが、義昭は呼応しようしたものの、毛利氏が動かず実現しませんでした。同様の働きかけは、3月ごろに高野山にもしており、各地に要請した形跡はありますが実を結ばなかったようです(『古証文』所収勝家書状」)。
4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めますが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れました。4月24日、勝家は北ノ庄城にて、信長の妹・お市らとともに自害(北ノ庄城の戦い)して死去。享年62。
辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」だと言われています。
その後の子孫
柴田勝家の子孫は、孫の勝重がいますが、実際には血脈上つながりはありません。
賤ヶ岳の戦い(1583)で勝家が敗れた時、まだ幼いこともあって北ノ庄を脱出し、母方の祖父・日根野高吉のもとで養育されたと伝わります。慶長4年(1599)に徳川家康に仕え、関ヶ原合の戦い(1600)、大阪の陣(1614-15)に従軍して功をあげたことで、勝重以降も江戸幕府の旗本として家名を残していきます。
明治以降もその加盟は続き、現在も末裔がいるとされています。
勝重を祖とする柴田三代の墓は、東京都三鷹市の春清寺にありますが、江戸後期に柴田勝房が柴田氏の代々の歴史を刻んだ石碑を同寺に建立しました。
柴田神社例祭と武者行列
福井県福井市にある柴田神社では毎年春に例祭が執り行われ、柴田勝家公とお市の方の命日であることにちなみ、様々なイベントや催し物が開催されます。
柴田勝家公とお市の方の法要や、武者行列では、柴田勝家公とお市の方の時代を再現したもので、甲冑姿の武者や姫君が町中を練り歩きます。武者行列は、午前11時からスタートし、柴田神社から西光寺までを練り歩きます。
春の風物詩となっていて、県内外から多くの観光客が訪れるお祭りです。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。