柴田勝家(1/2)数少ない織田信秀時代からの宿老
柴田勝家
戦国時代、尾張国の一部を支配する一武将から天下を狙える位置まで急成長した織田信長。領土拡大し多くの有能な家臣を召し抱える一方、父・信秀時代から織田家を支えた家臣もわずかながらいました。その代表格が柴田勝家です。当初は信長の弟、信勝(または信行)を担ごうとした時期もありましたが、その後は信長に服従し、宿老として手柄を上げていきます。今回は彼の生涯を紹介します。
誕生から信勝家臣へ
大永2年(1522)、尾張国愛知郡上社村(現・愛知県名古屋市名東区)で生まれました。ただし、生年には複数の説があり、大永6年(152年)説、大永7年(1527)説もあり、明確ではありません。
出自は不明で柴田勝義の子といわれていますが、確実な資料は残っていません。おそらく土豪階層の家の出身ではないかと推測されています。
若いころから信長の父・織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を治めていました。織田信長の家督継承の頃になると、織田家の重鎮となっていました。天文20年(1551)、信秀が死去すると、信長の弟・織田信勝(信行)に家老として仕えます。
天文21年(1552)、尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主・織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年の清洲城攻めでは大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てました(萱津の戦い)。
信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策、信勝の兄・織田信長の排除を試みて、弘治2年(1556)8月に勝家は1,000人を率いて戦うも、敗れ降伏(稲生の戦い)。
この時は信長・信勝兄弟の生母・土田御前の強い願いで赦免され、信勝・勝家・津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前とともに、信長に礼を述べたと伝わっています(『信長公記』首巻)。
以後は信長の実力を認め、稲生の敗戦後は信勝が新参の津々木蔵人を重用し勝家を軽んじるようになったこともあって、信勝を見限りました。弘治3年(1557)、信勝がまたもや信長の排除を目論んで謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告、信長は仮病を装い信勝は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害されました。信勝の遺児・津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになります。
織田信長家臣から浅井・朝倉を滅ぼすまで
信勝の死後は、罪を許されて信長の家臣となりますが、最初に信勝に与して信長に逆らったことが響いたのか、信長の尾張統一戦や桶狭間の戦い、美濃斎藤氏攻めでは活躍させていもらえませんでした。
それでも、永禄8年(1565)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には、丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、このころには信長の奉行の1人であったと考えられています。
永禄11年(1568)、上洛作戦になって再度重用されるようになり、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加(勝竜寺城の戦いなど)、信長の最精鋭として武功を挙げていきます。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当するも、幕府奉公衆に任せて、信長とともに岐阜に引き上げました。
永禄12年(1569)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度上洛し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当を務めます。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加しました。
元亀元年(1570)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ちます。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれました。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となりますが、佐久間信盛、森可成、中川重政と共に撃退。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍します。
同年8月から9月の野田城・福島城の戦いでは、三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対、混戦となります。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込みました。
元亀4年(1573)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落(石山城・今堅田城の戦い)。信長は将軍を重んじ、義昭との講和交渉を進めるも、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻しました。
7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条御所にそれぞれ立て籠もるも、勝家は藤英を説得し、二条御所を開城させています。
その後、勝家は自身も加わった7万の軍勢で義昭が籠る槙島城を総攻撃、降伏させます。義昭は追放され、室町幕府は事実上滅びますが、毛利輝元ら毛利氏に保護された義昭によって信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦していきます。
天正元年(1573)8月の一乗谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼし、勝家はその後の北近江の小谷城の戦いにも参加。その際の先鋒は羽柴秀吉でした。
越前攻めと本能寺の変
朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としますが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取ります。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切り、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆が激しい国となってしまいました。
信長はこれに総軍を率いて出陣、一向一揆を殲滅戦で平定。9月、信長は越前国掟全9条とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられることになります。
天正4年(1576)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されます。
天正5年(1577)7月、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱して足並みが乱れ李事態に。
勝家は七尾城の救援に向かうが間に合わずに七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受けます(手取川の戦い)。勝家側が千人余り討ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれていますが、他の史料に記載は無く小戦とも見られ不明です。そして天正6年(1578)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を駆逐しました。
天正8年(1580)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めます。一向一揆を制圧して、天正8年(1580)11月、ついに加賀を平定。さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たします。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老となりました。
翌天正9年(1581)2月28日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加。
天正10年(1582)3月から上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していましたが、6月2日未明、本能寺の変があって信長が横死。これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落しました(魚津城の戦い)。
事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ帰還、6月10日付の溝口半左衛門への書状では、勝家は光秀が近江に駐屯していると認識、大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討つ計画を伝えています。しかし上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽ったことで動けず、やっと18日に近江に出動した時には、すでに中国大返しを行った秀吉軍が山崎の戦で光秀を討った後でした。
清洲会議
本能寺の変後に開かれた信長の後継者を決める清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推します。しかし、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉が信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。