仁科盛信(2/2)兄に殉じた武田家のプリンス
仁科盛信
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- 名前
- 仁科盛信(1557年〜1582年)
- 出生地
- 山梨県
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江戸時代に入ると高遠藩の藩庁となり京極氏、保科氏、鳥居氏と城主が交代。元禄4年(1691)に内藤清枚が3万3千石で入封すると内藤家8代の城として明治を迎えました。
現在では遺構として石垣、土塁、空堀、門などが残り国の史跡に指定されています。また平成18年(2006)には日本の100名城の30番に選ばれています。桜の品種タカトオコヒガン1500本が植えられており、桜の名所としても有名です。
五郎山と仁科盛信像
仁科盛信は天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により自刃して果てました。
仁科盛信が守っていた高遠城ですが戦いの後、近隣の農民たちが盛信以下の屍を探し出し若宮原で火葬し、山に葬ったとされます。この山はそれ以来、五郎(仁科盛信の幼名)山と呼ばれるようになりました。
幕末になると高遠藩の藩医で儒学者でもあった中村元恒の献策により、祠を建てて霊を祭るようになります。厳密には山の総称が五郎山であり、中心の五郎山には仁科盛信、四郎山には副将の小山田備中、三郎山には郎人衆組頭の渡辺金太夫、二郎山には夫(諏訪頼清)の仇を討たんと敵中に討ち入り自害した諏訪はな、一郎山には諸士の祠を築いて慰霊しました。
すこし話が逸れますが、三郎山に祠を祀られた渡辺金太夫。金太夫は戦国時代でも特異な経歴の持ち主でした。渡辺金太夫は正確には渡辺金太夫照という事から日本全国に多数いた渡辺綱の子孫、渡辺党の1人と考えられます。元々遠江国の侍で今川家に仕えていました。ところが今川家が没落すると、徳川家に仕え高天神城を守る家臣団の1人となります。
元亀元年(1570)6月の姉川の戦いにも織田徳川方として参戦、朱色の槍、金の短冊の旗指物という目立った格好で大いに働き織田信長から「日本一の槍の達人」と言われ「姉川の七本槍」の1人として数えられました。ところが天正2年(1574)、武田家が高天神城を落すと籠城していた徳川家家臣は徳川領に戻る者、落とした武田家に降る者とに分かれます。渡辺金太夫は武田家に降り、高遠城の戦いに参戦しました。そして天正10年(1582)高遠城の戦いが始まる直前、城主の仁科盛信は徳川家に仕えていた渡辺金太夫に城を落ち徳川に戻るよう説得します。ところが渡辺金太夫はこれを固辞し、城と運命を共にしました。今川家、徳川家、武田家と仕える主君を変えながら、渡辺金太夫は戦国時代を駆け抜けました。その話から渡辺金太夫は祠を設け祀られたと思われます。
昭和63年、NHK大河ドラマ武田信玄が放送されるようになると、武田家の研究が活発に行われるようになりました。この時、高遠町の活性化と観光を考え高遠町の個人が仁科盛信像を五郎山に築き町に寄贈します。この像は仁科盛信の末裔とされる人が所蔵していた「仁科盛信画像」を基にしており、床机に腰をかけ具足をつけた陣中姿をモデルにしています。こうして激戦を戦った仁科盛信と武田家家臣たちの霊を祭った五郎山に現在も人々は訪れます。
長野県県歌 信濃の国
日本全国、多くの都道府県には県歌(都道府県歌、都道府県民の歌と呼ばれる受け継がれる歌)があり、長野県には「信濃の国」という県歌があります。
「信濃の国」は明治32年(1899)長野師範学校(現在の信州大学教育学部)の浅井測が小学生に向けて詞を作り、北村季晴が女子生徒の運動会用に作曲しました。歌が作られた師範学校は教員養成学校であった為、長野師範学校で習った教師は赴任した学校で「信濃の国」を教え県内に広まりました。
ところで長野県は明治に入ると長野県北部の長野県と南部の松本に県庁を置く筑摩県とに分かれていました。明治初期にこの二つの県は統合され長野県になりましたが、「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる対立が残りました。昭和に入った昭和23年(1948)、長野県の定例県議会で南北を分断し再び県を分ける意見書が提出されます。この際、傍聴していた長野県の人々は分割案に反対の意を示す為に「信濃の国」を合唱したと言われ、この意見書は最終的に否決されました。昭和43年(1968)、長野県はこの「信濃の国」を県歌と制定しました。
さてこの「信濃の国」の5番は県から排出された偉人たちを挙げています。源平のころの旭将軍源義仲、文豪太宰治、幕末の洋学者佐久間象山、そして高遠城に籠り奮迅した仁科盛信です。こうして仁科盛信は現在でも長野県で親しまれる存在となりました。
信玄公祭りと仁科五郎盛信隊
山梨県では毎年4月12日(武田信玄の命日)の前の金曜から日曜までの3日間、「信玄公祭り(しんげんこうまつり)」(コロナ渦からは秋開催)を行っています。祭りの目玉は武田24将を模した時代行列「甲州軍団出陣」で、その規模の大きさから平成24年にギネス世界記録に「侍が最も多く集まる祭り」と認定されています。
「信玄公祭り」の発祥は昭和22年(1947)に開始された桜祭りに遡ります。この時から最終日に地元の甲府市相川地区の住民による騎馬行列が行われていました。
昭和41年(1966)には第一回「甲府信玄祭り」が各地の伝統的祭礼を取り込みつつ開催されます。
そして昭和44年(1969)NHK大河ドラマ『天と地と』の影響を受け、翌年から「信玄公祭り」と改名されて、現在に至ります。
現在の「信玄公祭り」のクライマックスは度々出ている武者行列です。この武者行列は行政組織や協賛企業、姉妹締結州県(アメリカ合衆国アイオワ州など)より有志を募り武者として参加しています。そして「風林火山」の旗より「風の軍団」「林の軍団」「火の軍団」「山の軍団」「本陣隊・武田時代隊」に分かれ行列を行います。仁科盛信は「本陣隊・武田時代隊」の中に入り、ありし日の勇士を見せています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。