吉川経家(2/2)「哀れなる義士」と惜しまれた侍

吉川経家

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人物記
名前
吉川経家(1547年〜1581年)
出生地
鳥取県
関連する城・寺・神社
鳥取城

鳥取城

関係する事件

山県長茂は吉川経家が鳥取城に入城する際に一緒に城に入っています。そして経家が自害の際には小姓として現場にいました。鳥取城が落城すると、山県長茂は安芸国に生還します。戦国時代が終り、毛利家も安芸吉川家も周防国に転封すると山県長茂も従い、その後も吉川家に仕えました。晩年、山県長茂は吉川経家の孫、吉川正実に宛てて「山県長茂覚書」を残します。この中の多くが鳥取城の籠城についてであり、吉川経家の自害に関しても含まれていました。これが現在まで残っており、自害の瞬間という記録に残らないような話が今日まで伝わる由縁となりました。

又、吉川経家自身の遺書も5通のうち3通が残っており自身の心情も伺う事ができます。3通のうち1通は宗家筋に当る吉川元春の3男吉川広家宛てでした。そこでは「毛利と織田が激突した日本二つの弓矢の境目で切腹できることは末代までの名誉と存じまする」と述べています。

別の1通は家臣に宛てたもので、自分一人が犠牲になるので家(経家の家臣)は異議を申し立てるな、という内容です。

最後に残っているのが子供達宛てで、「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい」と残しています。
吉川経家も覚悟を決め、城兵の代表として責任を果たす心情が伺えます。

天正9年(1581)10月25日早朝、吉川経家は家臣と盃を交わし後に具足櫃に腰を掛けました。それから「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言いながら切腹し果てたと言います。介錯は家臣の静間源兵衛が務めました。辞世は「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん 」。

落ちた首は開城の証として羽柴秀吉の下に送られます。経実の首を見た秀吉は「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わります。その後、経家の首は安土城の織田信長に送られ丁重に葬られました。
亡くなった吉川経家は城内に墓を築いて葬られ、江戸時代に入ると城外の円護寺五反田に移されました。戦国時代は大きな戦いもありましたが、鳥取城の籠城のような小さな戦いの方が多くありました。その戦いの中で吉川経家は、城兵全員の助命の為に犠牲になるという責任を果たしました。

吉川経家の子孫、その後

吉川経家が亡くなり、長男の吉川経実が石見吉川家を継ぎます。関ケ原の戦いの後、毛利家が転封されると吉川経実もれに従います。そして宗家筋に当る吉川広家(安芸吉川家、江戸時代の岩国領吉川家)に仕え、明治時代まで続きました。

吉川経家の長男(経実)は毛利家に仕えましたが、3男の家好は江戸時代に入ると鳥取藩池田家に仕えます。この池田家に仕えた吉川家好の子孫の中の1人が落語家の5代目三遊亭円楽(本名:吉河寛海、6代目三遊亭円楽⦅楽太郎⦆の師匠)がいます。この縁から5代目三遊亭円楽は鳥取城にある吉川経家の銅像のモデルの1人となりました。

鳥取城と吉川経家像

鳥取城は、鳥取県鳥取市にあった城です。戦国時代中期、久松山の上に建ったことから、久松城、あるいは久松山城の異名があります。戦国期には、山名氏、武田氏、尼子氏、毛利氏の争いの場となり、羽柴秀吉により落されると織田家、豊臣家の管理になります。織豊時代が終り江戸時代に入ると、鳥取藩池田家の支配になり明治を迎えました。現在では天守台、石垣、堀、井戸などが残っており、天災などの度に改修を行った事から時代ごとの城郭形態が見られる「城郭の博物館」とも言われています。

さて鳥取城は池田経家と羽柴秀吉とが戦った舞台でもあります。その縁から鳥取市では平成5年(1993)、吉川経家の銅像を建てる事になりました。ところが吉川経家には肖像画がなく、姿形がわかりません。そこで経家の子孫の方を参考にイラストレーターが顔を書き、彫刻家がそれを元に作成する事になりました。このモデルとなった子孫の1人が5代目三遊亭円楽(本名、吉河⦅よしかわ⦆寛海)です。

5代目円楽が鳥取を訪れた際、地元の図書館長が円楽に語った所によると、藩翰譜に円楽の曽祖父にあたる武士が切腹したといいます。この武士は吉川経家の3男家好の流れに当る侍でした。この武士の切腹の際、立ち会った7歳の子(円楽の祖父である寛雅)は侍家業が悲惨なもので跡を継げないと思いつめ、江戸の増上寺で僧となったといいます。この僧となった寛雅は明治に入ると苗字を「吉川(きっかわ)」から「吉河(よしかわ)」に改めました。そうした縁から5代目三遊亭円楽は吉川経家の子孫としてモデルの1人となったといいます。

鳥取三十二万石お城まつり

籠城戦の舞台となった鳥取城。
鳥取城は江戸時代になると池田家が藩主となり明治まで続きます。さてこの城がある鳥取県では毎年秋になると鳥取池田三大祭の1つ「鳥取三十二万石お城まつり」を行っています。因幡鳥取藩初代藩主の池田光仲など殿様や姫様、武士などの時代行列から始まり、舞台での演奏演劇、「備州岡山城鉄砲隊」(備前岡山藩と因幡鳥取藩は同じ池田家の領地で転封により藩が入れ替わるなど深い関係にあります)による火縄銃鉄砲隊演武などを行います。この祭りの出し物の中に江戸時代前の城主であった吉川経家にちなんだ演劇などを行う年もあります。
鳥取城と久松公園において地域の歴史に触れながら秋を楽しむお祭りとなっています。

また毎年11月になると「鳥取市剣道大会兼吉川経家祭剣道大会」という剣道大会が開かれます。鳥取県では最も古い剣道大会で、このように鳥取県では現在でも吉川経家の面影を見る事が出来ます。

福光城と不言城まつり

福光城(別名:物不言城・ものいわずじょう)は現在の島根県大田市温泉津町福光にあった山城です。永禄2年(1559)、吉川経安が毛利家から福光の地を与えられると福光城を改修しました。そこから吉川家の拠点となり、吉川経家はこの城で育ちます。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで毛利家が長州へ転封となると吉川家もそれに従い福光城は廃城となりました。
現在では城跡があるだけですが、毎年10月に在りし日の吉川家を偲び「不言城まつり」を行っています。地元の寺で受付をすると毛利、吉川家に関する歴史講演会、福光城のあった場所までの登頂ウォーキング、昼食会などを行い秋の日を楽しみます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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