宇喜多直家(2/2)戦国三大梟雄の1人
宇喜多直家
浦上宗景を追放し領国の安定を手に入れた宇喜多直家は毛利家に付き、織田家に対抗します。天正7年(1579)には東美作の後藤勝基などを織田家に寝返ったとして滅ぼしています。ところが同じ年、宇喜多直家は突如として毛利家を離れ織田信長に臣従しました。これにより播磨国で毛利家に付いて戦っていた荒木村重や別所家は宇喜多直家により毛利家と分断され孤立し滅ぼされました。以降、西に位置する毛利家と宇喜多直家は美作国や備前国で戦い続けます。
直家の死と宇喜多家のその後
織田家に属し毛利家と戦っていた宇喜多直家。ところが天正9年(1581)2月14日、毛利家との戦いのさなか岡山城において病死しました。死因は悪性の腫瘍と言われており、戒名は涼雲星友として葬られます。ところが戦いの最中という事もあり、その死は伏せられていたため公式な忌日は翌年の天正10年(1582)1月9日とされました。
備前国の守護代浦上家家臣から備前、備中、美作(現在の岡山県)を支配するに至った宇喜多直家はこうして生涯を閉じました。
さて直家の亡くなった宇喜多家。家督は直家の嫡男秀家が11歳で継ぎます。天正10年(1582)には属していた織田家より備前国などの本領が安堵されました。秀家は叔父(宇喜多直家の弟)の宇喜多忠家や重臣たちに補佐され羽柴秀吉の与力に組み込まれ備中高松城の戦いなどに参陣します。ところがこの年、本能寺の変がおこり織田信長が亡くなると羽柴秀吉(豊臣秀吉)との結びつきを強くしました。豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ元服、前田利家の娘(豪姫)を秀吉の養女とした上で婚姻し豊臣家一門衆の扱いを受けます。
宇喜多秀家は豊臣家の中でも発言力の強い五大老の1人として地位を築きます。
その後、豊臣秀吉が亡くなると関ヶ原の戦いでは総大将毛利輝元に次ぐ副大将として参戦しました。ところが関ヶ原の戦いは敗北、宇喜多家は改易されます。宇喜多秀家は最終的に八丈島に送られました。八丈島において宇喜多秀家は「浮田」の姓を名乗り、この家系が明治まで続きました。
こうして宇喜多直家より始まった戦国大名宇喜多家は幕を下ろしました。
岡山城
岡山城は、岡山県岡山市北区にあった日本の城です。不等辺五角形をした三層六階建ての天守は黒い下見板張りの外観から、別名「烏城(うじょう)」或いは「金烏城(きんうじょう)」と呼ばれています。
岡山城は南北朝時代に、上神高直が石山台(岡山)に城を築いたのが最初とされます。当時、旭川河口部は複数の川に分岐しデルタ地帯を形成していて、その中で隆起した中央の丘を「岡山」、西隣に「石山」、その北部に「天神山」の3つの丘陵がありました。
宇喜多直家が石山城に入城すると城を改築し、更に子の宇喜多秀家が隣の岡山に新たに本丸を設けると、石山城を取り込む形で城郭が建造されました、これが現在の岡山城です。 関ヶ原の戦いで宇喜多家が取り潰されると小早川秀秋、更に池田家が入城し明治まで続きます。
明治時代に入ると御殿、櫓、門の大半が壊されましたが本丸と後楽園だけは残されました。ところが第二次世界大戦中、空襲により天守も焼失。こうして現在では2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、現存する月見櫓、西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。
現在の天守は昭和41年(1966)、戦前に学生の卒業論文にまとめられていた実測図を元に外観復元天守として再建された物です。
砥石城と宇喜多直家生誕の碑
砥石城は岡山県瀬戸内市にあった城です。この城の北側には備前国の守護所であった福岡があり、この地域を支配するに重要な城の一つでした。
築城年数は分かっていませんが、文明17年(1485)に『蔗軒日録〈しゃけんにちろく〉』で出てくることからそれまでに出来たようです。宇喜多直家の祖父宇喜多能家が城番となるなど宇喜多家が浦上家から城を任せられていました。宇喜多直家が砥石城を掌握し亀山城へ移ると宇喜多直家の弟が城番として守り、江戸時代までには廃城となったようです。
現在、砥石山には城は無く山頂までの登山道が整備され、本丸跡を含め遺構が残っています。また登山口そばに「宇喜多直家生誕の地」の石碑があります。
岡山寺と宇喜多直家木像
岡山寺は天平勝宝元年(749)に報恩大師が勅命を奉じて四十八寺を開いた時、第二番として創立されました。室町時代後期の天文年間、金光家から格別の庇護を受け、比叡山から高僧を招くほど大きく栄えます。
ところが江戸時代初期の慶安5年(1652)、岡山寺は道を挟んで岡山寺と光珍寺とに分かれます。岡山寺には宇喜多直家の墓が残り現在も岡山寺の玄関先にあります。
さて光珍寺には宇喜多直家の木像や宇喜多家歴代の位牌がありました。ところが第二次世界大戦の戦災で光珍寺の伽藍などが焼失、この時に宇喜多直家木像も位牌も焼失しました。現在、宇喜多直家木像の焼失前に撮られた写真が残っており、その時の写真パネルが岡山城内で見る事が出来ます。
うきだ振興まつり
中国地方岡山県の中心地岡山市を開いた宇喜多直家。この直家の飛躍の地であった浮田の小学校において地元の交流と地域の歴史にスポットを当てたお祭り「うきだ振興まつり」が毎年夏に行われています。宇喜多直家の子、秀家とその嫁の豪姫を一般公募し写真撮影会を行ったり、地域の歴史のクイズや史跡に関連した模擬店、そして最後に夏の夜を彩る花火大会を行い郷土の親交を深めています。備前国と呼ばれた岡山県、その岡山県の発展に尽くした宇喜多家は現在でも県民に親しまれています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。