宇喜多直家(1/2)戦国三大梟雄の1人
宇喜多直家
戦国時代、備前国(現在の岡山県)に突如として戦国大名となった武将がいました、宇喜多直家です。現在の岡山県(備前、備中、美作)は戦国時代、赤松家が守護大名として統治していました。ところが赤松家は家臣であった守護代の浦上家に取って代わられ、その浦上家に仕えていたのが宇喜多家でした。この宇喜多家に生まれた直家がどのように大名となったかを今回は見ていこうと思います。
宇喜多直家の宇喜多家とは
宇喜多直家が生まれた宇喜多家。
宇喜多家は備前国(現在の岡山県東南部)にあった戦国大名です。元々は地名に由来する「浮田」姓でしたが、嫡流が字を当てて「宇喜多」、庶流は「浮田」を名乗っていました。
宇喜多家は比較的遅く出たて来た大名で、文献上では室町中期に備前国の土豪として宇喜多姓が初出します。室町時代には播磨、備前、美作の守護大名赤松家に属していましたが、赤松家の守護代浦上家が台頭してくると宇喜多能家は浦上家の家臣となりました。
こうして備前国の大名浦上家家臣の子として宇喜多直家は生まれます。
直家の出生と浦上家臣
宇喜多直家は享禄2年(1529)、宇喜多能家の孫(父は宇喜多興家と言われているが不明)として砥石城にて生まれます。
生まれた後の享禄4年(1531)、備前国戦国大名の浦上村宗が敗死すると備前国はおおいに混乱し祖父の宇喜多能家や父は暗殺されました。宇喜多直家は放浪した後に浦上宗景に仕え、頭角を現します。浦上家は播磨国などの守護大名であった赤松家の第一の家臣として仕えていました。浦上宗景の兄、浦上政宗も赤松家に仕えていましたが、弟の浦上宗景は備前国で兄から独立し戦国大名化します。宇喜多直家は独立した浦上宗景の下、謀略に長け宇喜多能家を暗殺した島村盛実、舅である中山勝政や龍ノ口城主であった穝所元常を殺害し浦上宗景の支配力強化に貢献します。これら宇喜多直家の行った暗殺、謀殺などから後年には斎藤道三、松永久秀と並んで『戦国時代の三大梟雄』、安芸国の毛利元就、出雲国の尼子経久と並んで『中国地方の三大謀将』と呼ばれます。宇喜多直家に対するこれら評価は江戸時代初期に小瀬甫庵が書いた『太閤記』で挙げた事や当時の軍紀物などで脚色された面があります。その一方で親類などを謀殺した事実もある為、一概に創作されたイメージばかりでもなかったようです。
また舅の中山勝政を襲った際は主の浦上宗景の指図ともされますが、中山勝政を襲った事で勝政の居城であった備前亀山城を手にしました。直家は砥石城から亀山城へ移り、岡山城に移るまでの15年間この城を中心に備前国に影響力を強める事になります。
直家は幼い頃に備前国の中を放浪するうちに、経済の発展地であった備前福岡などを見て政治などを学び、一方で混乱した備前国で繰り返された暗殺なども見てきた為に暗殺、謀殺などの政治的暗闘に勝ち抜く術を見出しました。
直家の勢力拡大と岡山城の発展
浦上宗景に仕えながら亀山城を中心に勢力を拡大させていた宇喜多直家。
ところが同じ時期、備中国(現在の岡山県西部)の国人(地域の小豪族)三村家親が台頭してきます。三村家親は西に位置する安芸国の大大名毛利家に属すると東に位置する備前国へ勢力を拡大させていきます。永禄8年(1565)三村家親は浦上宗景や宇喜多直家の勢力下にあった美作国(現在の岡山県北部)や備前国へ侵攻し小競り合いを繰り返しました。これに腹を立てた宇喜多直家は顔見知りであった阿波国の浪人、遠藤俊通、秀清の兄弟を雇います。兄弟は重臣と協議中であった三村家親を短銃で襲撃しました。戦国時代でも珍しい鉄砲による暗殺です。
備中国の三村家親を退けた宇喜多直家は浦上宗景の下で備前国の勢力拡大を続けました。姻戚関係にあった金川城主の松田元輝や岡山城主であった金光宗高などを没落させると自分の領地に組み入れ拡大させていきます。
元亀元年(1570)には岡山城(この当時は石山城と呼ばれていました)を手に入れると、亀山城から移り城郭の改築と城下町の形成を行いました。特に城の北側を走る西国街道を城の城下に沿うよう付け替え、人の流れを岡山城に呼び寄せるよう図ります。そして備前国東部にあった備前福岡や西大寺といった商業地から商人を呼び寄せ、城下町として発展させました。宇喜多直家は街道を整備する事で流通を整え経済振興を図りました。これが現在にまで続く岡山の発展に繋がります。
浦上家からの独立と浦上宗景の追放
さて永禄11年(1568)、美濃国尾張国(現在の岐阜県、愛知県西部)の大名織田信長が足利義昭を奉じ上洛します。
翌永禄12年(1569)足利義昭は室町幕府15代将軍となりましたが、宇喜多直家の主である浦上宗景は将軍となった義昭に臣従しませんでした。そこで宇喜多直家は独自に足利義昭、織田信長と連絡を取りあい、更には西播磨の赤松政秀と結び浦上宗景に反旗を翻します。織田信長は自らに属していた畿内の国人衆などを派遣して宇喜多直家を応援しました。
ところが元亀元年(1570)織田信長は金ヶ崎の退口、姉川の戦い、第一次信長包囲網と連戦続きで備前国の内情にまで手が回らなくなります。信長が派遣していた畿内の国人たちも備前国から引き上げさせ畿内の防衛に力を入れました。織田信長の脅威から解放された浦上宗景は息を吹き返し赤松政秀の龍野城を攻め、降伏させてしまいました。足利義昭は浦上宗景と織田信長との和睦を斡旋、宇喜多直家はこの頃に浦上家から完全に独立し戦国大名となります。
天正2年(1574)、宇喜多直家は中国地方の大国毛利家と手を結びます。そして浦上宗景を中心とした備前、備中、美作(現在の岡山県)の国人衆や浦上宗景配下の諸勢力に働きかけて切り崩しを謀りました。
天正3年(1575)浦上宗景の腹心であった明石行雄ら重臣たちも内応させて浦上家内部の切り崩しも行いました。これには浦上宗景も耐えられず、天神山城の戦いで敗れると播磨国へと退散します。ここに宇喜多直家は備前国と備中、美作の一部を支配下に置きました。
しかし宇喜多直家が支配下に置いた領内において依然として、浦上家を支持する勢力がいました。播磨国に退いた浦上宗景はこれらの勢力と連絡を取りあい反宇喜多の動きを扇動します。宇喜多直家は小規模な反乱に悩まされる事になりました。
そして天正6年(1578)浦上残党は一斉に蜂起し幸島を占領、更に浦上宗景が天神山城を奪い占拠します。宇喜多直家はこの武力蜂起の鎮圧に数か月を要しました。しかし鎮圧に成功した事により浦上家勢力を支配下地域から追放、討伐し領内の支配権を明確に確立できました。
中国地方の毛利家と畿内の織田家
さて浦上宗景と暗闘を繰り返していた宇喜多直家。この間、畿内を支配下に置いていた織田信長は将軍足利義昭を追放、天正5年(1577)秋には播磨国に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を派遣し中国地方侵攻に着手します。ところが織田家に属していた播磨国の大名国人が織田家を裏切り毛利家に付きました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。