顕如(2/2)織田に抗した宗教家
顕如
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元亀3年(1572)求めに応じた武田信玄が西上を始めます。この武田家に呼応し足利義昭は織田家に反旗を翻しました。(「第二次信長包囲網」)
ところが翌元亀4年(1573)、西上途中の武田信玄が病死。武田家の脅威から逃れた織田信長は朝倉家、浅井家を滅亡に追い込みます。更に足利義昭を追放しました。
天正4年(1576)、織田信長は畿内周辺の安全を確保できたので冷戦状態が続いていた石山本願寺に対し攻勢に出ます。顕如は紀伊国(現在の和歌山県)の鈴木重秀を中心とした雑賀衆の助力を得、石山本願寺に籠りました。そして越前や伊勢の一向一揆に促し抵抗します。更に追放された足利義昭のいる中国地方の毛利家や北陸の上杉家と連絡をとり織田家に抗いました。(「第三次信長包囲網」)
しかし各地の一揆は織田家によって鎮圧され、北陸の上杉家当主上杉謙信も亡くなり上杉家が離脱。顕如は毛利家と共に不利となる戦いを続けました。
石山合戦の終戦と顕如の最期
毛利家と組み織田家と戦った石山本願寺の顕如。当初、瀬戸内海の制海権を握っていた毛利家の助力もあり、戦いを優位に進めていました。ところが木津川口の戦いなど海戦に敗れると制海権を奪われ、苦しい籠城戦となります。
天正8年(1580)朝廷の仲介により石山本願寺と織田家は和睦。顕如の長男教如や雑賀衆は和睦に反対しましたが、最終的に教如たちも受け入れ石山本願寺を織田家に明け渡しました。ところが明け渡しの直後、石山本願寺と周辺の寺内町は謎の出火により焼失します。一部の和睦に反対した石山本願寺の僧が火を付けたとも、織田家の兵が持っていた松明が燃え移ったとも言われていますが2日間石山本願寺は燃え続け無くなりました。
顕如は明け渡し直後、紀伊国鷺森御坊に移り拠点とします。更に貝塚御坊へ移動します。
さて石山本願寺を退けた織田信長。織田家は畿内をほぼ掌握し、日本各地に侵略を広げていきます。ところが天正10年(1582)6月、家臣の明智光秀により織田信長が討たれました(本能寺の変)。この織田信長の後を受けて天下人となったのが羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。羽柴秀吉は織田家の中の政争に勝ち抜き、日本全国を掌握しました。また秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を築きます。そして貝塚道場にいた顕如を呼び戻し天満に寄進地を与えます。顕如はこの地に天満本願寺を建て新たな拠点としました。
そして天正19年(1591)豊臣秀吉から京都七條堀川に新たな寺地を与えられ、本願寺を築き拠点を移します。ところが翌天正20年(1592)、顕如はこの七條堀川の地で亡くなりました、50歳で示寂。
顕如は本願寺を最も繁栄させましたが、織田信長と戦い苦しい時期も過ごし波乱の人生を終えました。
石山本願寺のその後
さて顕如が亡くなった後の本願寺。
天正20年(1592)11月、顕如の示寂で長男の教如が七條堀川にある本願寺を継承します。天下人の豊臣秀吉もこの後継には朱印状を出し認めました。継いだ教如は石山合戦において最後まで抗戦を主張した人物ですが、自らが本願寺住職の位に付くと顕如の周りにいた穏健派から自らを支える強硬派を周りに据えます。穏健派は謹慎等にあい内部対立が起きました。
およそ半年後、顕如の室であった如春尼(教如の母)は豊臣秀吉を訪ね相談を持ち掛けました。結果、秀吉の裁定により教如は強制的に隠居、顕如の三男准如が新たな住職となります。教如は隠居のまま、各地にいる支持者を回り布教活動を行いました。
さて豊臣秀吉の亡くなった後。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こります。
この時、教如は危険を冒して徳川方に付きます。結果、慶長7年(1602)に徳川家から新たな寄進地を与えられ寺を設立。ここから本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺に分かれ今に至ります。顕如の時代に一時代を築いた本願寺は幾つかに分派して残る事になりました。
石山本願寺(大坂本願寺)
石山本願寺は現在の大阪城と大阪城公園の場所にあった(正確には摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった寺院です。石山本願寺という名称は後世で定着した名前で大坂本願寺、大坂城など種々の名で呼ばれていました。
本願寺中興の祖蓮如は山科本願寺を中心に布教活動を行っていました。延徳元年(1489)、住職の座を子の実如に譲りましたが引き続き精力的な布教活動を行います。特に大坂周辺へも度々訪れ明応5年(1496)には坊舎(大坂御堂)を建てました、これが石山本願寺の原型となります。坊舎は堺や摂津、河内、和泉など周辺の門徒の助けを得、建てられていきます。この時、大坂の地を掘ると礎石に使用できるような石が出土した事から「石山」と名付けられた、とされています。
蓮如の曾孫、顕如の父に当たる実如の時に山科本願寺を焼かれ、石山本願寺へ拠点を移しました。焼かれた山科本願寺から塑像が移され天文2年(1533)に安置された事から石山本願寺の築城年数をこの年とされています。周辺の大名や他宗派との抗争から城郭建設の技術者を集め、堀を巡らし、土塁を上げ、柵を建てて堅牢に造られました。また古代より京と瀬戸内海を中継してきた港(渡辺津)に隣接していた事や四方の街道が集まっていた事から発展し寺の周りに大規模な寺内町を形成します。その規模はヨーロッパから布教に来ていた宣教師ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスに「日本有数の都市」として報告されています。石山本願寺は堀や土塁で守られ、大規模な寺内町に囲まれた城塞都市となりました。
そして顕如の時代、元亀元年(1570年)9月12日から石山合戦が始まります。戦いは11年間続き天正8年(1580年)に終わりました。ところが終戦の直後、石山本願寺は謎の出火により寺も町も焼けて無くなります。その跡地に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が大坂城と町を築いた為、石山本願寺の痕跡すら分からなくなりました。そして大坂の陣で大坂城は陥落しましたが、その後に何度か再建され石山本願寺のあった場所には現在も大坂城が建っています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。