朝倉義景(2/2)越前の貴公子
朝倉義景
同じ年の永禄11年(1568)9月、朝倉家を去った足利義昭は織田信長に擁立され上洛を果たします。足利義昭は15代将軍となりました。将軍となった義昭は自らを支えるよう朝倉義景に要請、軍勢を引き連れて上洛するよう2度要請します。ところが朝倉義景は本国の越前国を留守にする事を恐れ、また織田家に従うことを嫌い足利義昭の要請を拒みました。
永禄13年(1570)4月、若狭国の武藤家を討伐する目的で織田信長は若狭国へ向かいます。これは実質的に若狭国を支配している朝倉家を討伐する意図があり、朝倉家に反する粟屋氏・熊谷氏は早々に織田家に降伏。朝倉義景は軍勢を差し向けましたが、金ケ崎城を落されます。ところがこの直後、織田家に属していた北近江の浅井家が織田家を裏切ります。織田信長は朝倉家と浅井家に挟み撃ちに逢い、命からがら京へ逃れました。
そして同じ年の元亀元年(1570)6月。織田信長と徳川家康の連合軍、浅井家と朝倉家の連合軍が姉川で激突します。戦いは織田家と浅井家、徳川家と朝倉家とが正面から激突、浅井家は織田家を突き崩し有利に進めましたが、朝倉家が徳川家の榊原康政に臆面を突かれ敗走します。ここから浅井、朝倉家は総崩れとなり敗走しました。浅井家は多くの城や砦を失い、以降不利な立場に陥りました。
志賀の陣と信長包囲網
さて姉川の戦いの起こった2ヶ月後の事です。
8月25日、四国に逼塞した三好家が再度畿内へ侵攻。織田信長は居城である岐阜を出立し大坂へと向かいました。
9月12日、大坂にあった野田城福島城へ立て籠もった三好家を織田家は攻め立てます。(野田城福島城の戦い)ところが12日夜半、大坂にあった石山本願寺が三好家に付き一揆を起こします、石山合戦の始まりです。そして前日の11日、朝倉義景と浅井家も北近江を出発し近江坂本へ侵攻しました。9月20日には坂本で抵抗していた信長の弟に当たる織田信治と重臣の森可成を敗死させました。翌21日には京の隣にある山科へ進出し都を伺います。これに驚いた織田信長は大坂から撤退、京へ引き返します。朝倉家、浅井家は比叡山に立て籠もり引き返してきた織田信長と対峙しました(志賀の陣)。
ここから双方は小規模な戦いを繰り返し、冬に入った12月に正親町天皇の勅命により講和しました(第一次信長包囲網)。
翌元亀2年(1571)2月、織田信長は木下秀吉(豊臣秀吉)に越前と近江との交通を遮断するよう命令、織田家と浅井朝倉家との緊張は続きます。朝倉義景は石山本願寺とより緊密した関係を築くため自らの娘と石山本願寺門跡顕如の子教如との婚約を成立させました。
8月には浅井朝倉の連合軍が北近江にある横山城、箕浦城を攻めましたが、逆に織田家によって兵站を脅かされて敗退しました。軍事において朝倉義景は織田家の遅れを常にとりました。またかつて朝倉宗滴の指示を受けていた朝倉家では後任を任せるだけの家臣も育っていません。朝倉家では家臣の心が離れていきました。
元亀4年(1573)、甲斐国の武田信玄が反織田の立場を鮮明にして上洛を開始。朝倉義景も反転攻勢に出ましたが、武田信玄が上洛途中に病死。武田家は上洛途中で甲斐へと引き返します。織田家は危機を脱し、本格的に朝倉家浅井家の攻略に乗り出しました。
一乗谷の炎上と義景の最期
天正元年(1573)8月、武田家の脅威が無くなった織田信長は近江国へ侵攻します。朝倉義景は一乗谷から軍を率いて迎え撃とうとしましたが、度重なる軍役と義景の敗退から軍役の拒否をする家臣も出てきました。兎も角も軍勢を整えた義景は近江国へ向かいます。
大嶽砦や丁野山砦を落された朝倉家は敗退。刀根坂において織田家の追撃も受けた朝倉家は総崩れとなり、朝倉義景は一乗谷へ逃げ帰りました。
この間、朝倉家軍勢の逃亡は続き、一乗谷の留守舞台も味方の敗退を聞きつけ逃げ出しました。
一乗谷も捨てた朝倉義景は最終的に賢松寺へ逃げ込みます。最後まで付き従った重臣で従兄弟の朝倉景鏡にも裏切られ自刃しました、朝倉義景享年41。織田信長の近江国侵攻から1ヶ月も経たない間の出来事でした。
朝倉義景の死後、家族も織田家に捕らえられ殺害されます。ここに越前の戦国大名、朝倉家は滅亡しました。
義景の子と伝わる信景(江戸時代)
朝倉義景には成人した男子はいなかったとされます。ところが義景の子とされ、朝倉家滅亡時には難を逃れた男子がいました、朝倉信景です。信景は石山本願寺(大坂本願寺)の顕如の子、本願寺教如の弟子となりました。本願寺は朝倉家と姻戚関係にあり教如も信景の夭折した姉(朝倉義景の娘、四葩)と婚約した過去もあり関係が深かったのです。信景は後年、江戸へ移り住み寛永5年(1628)、桜田外に遍立寺(朝倉山・一乗院)を建立、本願寺宣如より本尊を譲り受けて住職となります。承応元年に82歳で亡くなりました。
この他に朝倉氏の生き残りとして、越前朝倉一族と称した朝倉在重がいました。在重の子の朝倉宣正は徳川忠長(徳川秀忠の次男)の附家老として掛川城主になりましたが、忠長の改易切腹に連座します。朝倉宣正の弟の家は、江戸幕府旗本としてその後も続きました。
朝倉家の一乗谷
一乗谷は現在の福井市街より東南約10キロ離れた一乗谷川沿いの谷にあった中世の山城とそれを取り巻く都市です。一乗谷自大の規模は大きくありませんでしたが、目の前を北陸道や美濃街道、越前府中(越前市)へ続く街道を押さえられる要衝にありました。
南北朝時代、朝倉氏は一乗谷を拠点としていたようであり家臣も集まり集住するようになりました。戦国時代に入ると荒廃した京を離れ、公家や高僧、文化人が移住してきた事から最終的に1万人を超える都市となり「北の京」とも呼ばれました。
明応の政変で10代将軍足利義稙が京を逃げ出すと朝倉家を頼り一乗谷へ訪れます。また、永禄の変で13代将軍足利義輝が討たれると弟の覚慶(後の15代将軍足利義昭)が頼って一乗谷を訪れるなど政治の舞台ともなります。
織田信長によって朝倉家が潰されると、統治を任された柴田勝家は山間にある一乗谷から陸運水運に優れた北の庄(現在の福井市)へ拠点を移し、以降現在まで越前国(福井県)の中心は北の庄(福井市)になります。一乗谷は辺境となり、優れた邸宅も都市も田園の下に埋もれていきました。
昭和42(1967)に一乗谷の発掘が開始されると都市の全貌も現れ注目されるようになりました。現在では一乗谷朝倉遺跡と呼ばれ、国の特別史跡に指定されています。また4つの日本庭園は「一乗谷朝倉氏庭園」の名称で国の特別名勝の指定を受けています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。