徳川秀忠(2/2)江戸幕府2代目の将軍
徳川秀忠
秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治、家康は外様大名との折衝を担当と分けていたのです。
将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を図ります。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設、自身に直結する軍事力を強化しました。
慶長12年に家康が駿府城に移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方、秀忠麾下の大番や関東の譜代大名が交代で警衛に当たっており、秀忠の持城になった。同年、江戸に到着した家康は秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えています。
続いて慶長13年冬から翌年春には関東の大名・旗本の観閲を行います。慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、三河国田原で勢子大将を土井利勝・井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っています。
秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、続いて財政の譲渡に取り掛かります。
慶長16年よりこれまで駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更、翌年には諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更されました。
秀忠の権力強化は家臣団の交代にも現れています。
将軍就任の翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政が亡くなり、また関東総奉行の青山忠成・内藤清成は家康の狩場に領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、家康の怒りを受けた秀忠が両人を解任。同じく総奉行の本多正信は老中に横滑りをして、関東総奉行の職は消滅します。慶長19年には大久保忠隣が改易され、正信を除き旧来の家臣は江戸政権の主要な役職から去り、秀忠の近臣がその地位を占めるようになりました。
大坂の陣
慶長19年3月9日、右大臣となり官位でも豊臣秀頼に追いつきました。方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣し、連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示しています。その後、勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請しています。
10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留。
その後の城攻めでは総大将として強攻を主張するも容れられず、また講和後の堀埋め立ての現場指揮を行いました。
慶長20年(1615年)の「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされました。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめています。
元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝え、秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取りました。22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰りました。
家康亡き後の政治と最期
家康死去の同年元和2年にキリシタン禁制に関連し、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定します。
元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発しています。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内。この上洛で、秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社への介入を自身が引き継ぐことを示しました。
元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っています。この時、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じたのです。
特に家康生前の時代には譜代大名は畿内以東にとどまっていたが、豊後日田藩に石川忠総を転封させたことを皮切りに、播磨の姫路藩に本多忠政、龍野藩に本多政朝、明石藩に小笠原忠真、備後福山藩に水野勝成を転封させ、畿内より西の西国に譜代大名を設置しはじめます。元和6年6月18日、娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内。9月6日、秀忠の2人の男児竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗ることになります。
元和8年1月には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを内々に、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じました。
元和9年(1623年)に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・家光に譲っています。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行いました。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようですが、結局は江戸城西の丸に移り住みました。
寛永3年(1626年)10月25日から30日まで天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁。寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫・女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇の外戚となりました。
寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じていますが、このころから体調を崩し、寛永9年1月24日(1632年3月14日)に薨去。享年54(満52歳没)。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。