徳川秀忠(1/2)江戸幕府2代目の将軍

徳川秀忠

徳川秀忠

記事カテゴリ
人物記
名前
徳川秀忠(1579年〜1632年)
出生地
静岡県
関連する城・寺・神社
浜松城

浜松城

江戸城

江戸城

大阪城

大阪城

関係する事件

戦国時代から安土桃山時代、江戸時代へと時代が移るにつれて、武将たちにとっては戦いの世から太平の世へと変わり、褒賞として得るものも土地(領地)から刀や茶器になるなど、大きく価値観が変わっていった時代でした。戦国大名の息子として生まれ、2代目として太平の世の礎を築いた父・徳川家康の跡を継ぎ、礎を強化したのが徳川秀忠です。今回は秀忠が生きた激動の時代を紹介します。

出生から後継者前夜

天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の三男として遠江国浜松城で誕生しました。母は、西郷局(戸塚忠春の娘、伯父・西郷清員の養女)です。

母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町時代初期には三河国守護代を務めたこともある名家、当時も三河国の有力な国人でした。乳母・大姥局によって養育されます。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいます。

秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子(豊臣家から見ると人質)として出され後に結城氏を継いでいます。

そのため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な後継ぎとして処遇されることになったのです。
長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である朝日姫を家康に嫁がせることになった時になります。

この時家康は、「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」・「長丸(秀忠)を秀吉の人質としないこと」・「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられています。

天正18年(1590年)1月、小田原征伐の際、実質的な人質として上洛。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置ですが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対し、家康から長丸を上洛させる希望を述べています。上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けています。

この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ、秀吉から、豊臣姓を与えられます。父・家康の一字と秀吉の偏諱を用いた「秀康」は既に異母兄が名乗っていたため、徳川宗家(安祥松平家)の通字として使用されていたもう一つの字である「忠」が名乗りに用いられたと考えられています。

文禄の役では榊原康政・井伊直政の後見を受け、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行います。文禄元年に秀吉の母大政所が死去した際には弔問のため上洛、9月には中納言に任官して「江戸中納言」と呼ばれるようになりました。

慶長3年(1598年)に記された秀吉の遺言状では、家康が年をとって患いがちになった場合は秀忠が代わりに秀頼の面倒をみること、また家康は三年間は在京し、その間に領地に用がある場合は秀忠を下向させるべきと定めています。遺言の通り、秀吉死去直後に秀忠が家康の命で帰国しました。

関ヶ原の戦いの遅参

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対し、当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後に中山道を通り甲信地方の真田氏を平定する別働隊の指揮を命じられます。

真田昌幸は東軍の指揮を執る家康に従っていましたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野犬伏で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還して西軍に与します。
これに対し、長男の信幸は東軍に従いました。

徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かいました。

9月2日、秀忠は小諸に到着。9月3日、昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾しますが、4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったたことで、戦闘状態に入ります。

秀忠軍は9月5日、上田城に接近、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向けると、真田信繁軍は撤退します。これにより信之軍は戦わずして戸石城を接収したのです。

戸石城を落とした後、秀忠軍は9月6日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てくるも敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫りますが、ここで秀忠より撤退命令が下されます。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進しました。

通説では、大規模な合戦が上田で行われて秀忠軍が大敗、またこの敗戦によって関ヶ原合戦に遅参したと考えられていました。しかしこれらを裏付ける当時の史料は残っていません。家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されているだけです。

また秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、9日に一旦全軍を小諸へと撤収した直後に家康の書状を携えた使者が到着、その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とされていますが、森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田です。

秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにしますが、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参したとされています。

いずれにしても秀忠が上田城攻めを諦めたのは、家康の作戦方針の転換による急な参陣命令に従っただけで、秀忠が上田城を攻めあぐねたのではなく、それに専念する時間的な余裕を失い、打倒昌幸という本来の任務を中断せざるをえなくなったのです。上田攻めに秀忠が専念していれば結果は違ったものになった可能性が高いと指摘されています。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことからも、信繁が夜討ち・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされています。

征夷大将軍を継承へ

慶長6年3月に秀忠は大納言に任じられ、翌月に関東へ帰国します。翌7年1月には家康より関東領国の内20万石を与えられ、秀忠は自身の直臣に知行を与えます。6月には佐竹の旧領収公を付属の正信・忠隣が行いました。
慶長8年(1603年)2月12日に悲願の征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を実現するため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に求め、慶長8年(1603年)4月16日に任命させています。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣を指すことになります。

関ヶ原の戦いの論功行賞を名目に、豊臣恩顧の大名を改易、西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となります。

慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出立しました。

3月21日、秀忠も伏見城へ入り、4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられました。これにより建前上家康は隠居、大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となります。

征夷大将軍としての政治

将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間で二元政治体制になりますが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執っていました。

徳川秀忠の記事には続きがあります

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.04