長浜藩豊臣家を監視するためだけに造られた

長浜藩

内藤家の家紋「内藤藤」

記事カテゴリ
藩史
藩名
長浜藩(1606年〜1615年)
所属
滋賀県
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長浜城

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長浜藩は、豊臣秀吉が築いた長浜城を藩庁とし、わずか数年間のみ存在した藩です。
豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家を監視する目的のために造られました。
わずか1代限りの長浜藩がどのような藩だったのか、解説しましょう。

豊臣秀吉の最初の領地だった長浜

長浜は、当時「木下藤吉郎」と名乗っていた豊臣秀吉が、小谷城の戦いで戦功を建てたことを理由に、織田信長から下賜された土地です。秀吉は、城持ち大名になったことをきっかけに、羽柴秀吉と名乗ります。また、長浜は石田三成の故郷でもあります。

長浜城は秀吉が天下を取った後は柴田勝家の甥、勝豊が城主となりましたが賤ヶ岳の戦いで秀吉に降伏、そのご山内一豊が城主となりますが、天正の大地震で長浜城が倒壊、子女が城の下敷きになって亡くなるという悲劇に見舞われています。

そして、関ヶ原の戦いの後に長浜藩が開かれ、城主として招かれたのが内藤信成・信正親子でした。内藤信成は、松平広忠の庶子で徳川家康の異母弟といわれており、徳川家康の重臣として13才から数々の戦いを共にくぐり抜けてきました。
長浜城主になったのは慶長11年(1606年)のことです。采地を改められて近江国4万石を領しました。なお、この異動は家康が徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府城に隠居したためといわれています。家康が留守の間駿府城は内藤信成に任されていました。このエピソードだけで、家康が信成を信頼していたことがわかります。

長浜藩は、豊臣家を監視するために造られたと考えられており、家康は最も信頼できる血縁であり重臣でもある彼を初代藩主にしたのでした。
内藤信成は、慶長17年(1612年)7月24日、長浜城において68歳で病没しています。
2代目藩主になった長男の内藤信正ですが、彼は慶長20年(1615年)に大坂の陣が終ると、摂津国高槻に移風となり、さらに伏見城代をへて、初代大阪城代になりました。

高槻藩はキリシタン大名高山右近の領地であり、彼は日本でキリスト教の禁教令が出たあとも進行を捨てず、ついに国外追放となってフィリピンのマニラで生涯を終えました。
つまり、高槻藩は藩主の影響でキリスト教徒がまだ残っている可能性が高かった場所です。家康は信頼できる家臣であり血縁でもある内藤信正を藩主にすることにより、キリスト教職を一掃する狙いだった可能性もあります。

豊臣家が亡び、存在する意義がなくなった長浜藩はそのまま廃藩になり、長浜城も取り壊されてその資材は彦根城の建材となりました。

長浜藩まとめ

長浜城は、豊臣秀吉を描いたドラマや映画では登場する頻度が高く、今も城址には歴史ファンが多く訪れます。しかし、江戸時代に入り、役目を終えた長浜城は取り壊され、長浜藩は廃藩となりました。その歴史を振り返ると、栄枯盛衰を感じずにはいられません。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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