岡藩一度も城主の移封がなかった
中川家の家紋「柏紋」
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岡藩は、現在の大分県竹田市大字竹田市一帯を治めていた藩です。豊後国内では石高が最大の藩であり、豊臣秀吉の配下であった中川清秀の次男、中川秀成が初代藩主となり、明治維新まで一度も国替えがなかった珍しい藩です。そんな岡藩の歴史を紐解いていきましょう。
岡藩の成り立ち
岡藩は、文禄3年(1594年)に中川秀成が、豊臣秀吉より豊後岡に7万4千石の所領を与えられたことが始まりです。もともと岡は大友氏の所領でした。しかし、前年の文禄2年(1593年)、文禄の役で大友義統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されてしまいます。岡城は、志賀親次という人物が城主でしたが、主君の大友義統に付き従って岡城を出ます。その後に、中川秀成が入城し、3年の歳月をかけて大改修をおこないました。
ちなみに、岡城は現在岡城址として日本百名城にも登録されています。現存する建築物は石垣のみですが、多彩な技術や石の積み方は、まるで石垣の見本市のようです。
なお、中川秀成の父、中川清秀は大阪摂津茨木城主の家柄で、実の従兄弟にキリシタン大名の高山右近がいます。中川秀成自身は、キリシタンであったという明確な記録はないのですが、昭和36年に行われた「中側秀成公350周年祭」のときに発行された祭典誌などには、高槻の教会で洗礼を受けたことが記されているため、キリシタンであった可能性は高めです。また、岡城には「サンチャゴの鐘」と呼ばれるキリシタンの遺物も残されており、現在も国の重要文化財に指定されて中川氏を祀る神社、中川神社に保管されています。
中川秀成の前に岡城の城主であった志賀親次もキリシタンであったことも考えると、不思議な因縁を感じます。
中川秀成は豊臣秀吉の朝鮮出兵にも同行しましたが、朝鮮半島より牡丹を持ち帰り、領地のあちこちに株分けしたという逸話も有名です。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、一度は家臣を西軍方の丹後田辺城攻めに派遣したが、関ヶ原で行われた本戦が終結した後に東軍に味方し、その結果領土を安堵され、岡半を開きました。
江戸時代の岡藩
2代目藩主の中川久盛は、「御政事御定書」を制定して藩の法制度を整え、藩政の基礎を築きました。また正保年間に緒方井路の開削を行ないはじめ、完成した水路は農業用水路として重宝されました。
3代目藩主、中川久清は家老制度や奉行制度を制定し、検地を行って藩の仕組みや税収制度を父同様に調えます。さらに、キリシタン摘発を目指しての絵踏みを行いました。この時代に、岡藩からキリシタンが一掃されたと考えられます。このほか、父が始めた緒方井路の開削を完成させました。
彼は賢君でありましたが、その一方で久住連山の一つ大船山を愛し、足が不自由になってからも家臣に担がせて何度も登頂し、死後は大船山の中腹に葬られています。
4代目、5代目藩主の時代に藩内に地震や火事などの天災が相次ぎ、藩の経済が苦しくなりますが、藩主と家老達が一致団結して対策に乗り出しています。同時に、藩校・由学館の前身である輔仁堂を作るなど、藩士の教育にも熱心でした。
8代目藩主の中川久貞の時代、岡藩はさらに天候不順による凶作、領民の強訴、大火など災難が続きます。また、中川久貞の実父が老中であったため、本人も老中になろうと幕府に多額の献金を行ったため、藩の経済がさらに圧迫されました。しかしその一方で、久貞は由学館や経武館、博済館など藩校を創設して文治教育の普及に尽力しています。また、相次ぐ災害で苦しむ領民に対して窮民養成所を設けるなど、福祉政策も行いました。
9代目藩主は、わずか23歳で早世、10代目藩主の中川久貴は、文化元年(1804年)に豊後一国の地誌である『豊後国誌』を編纂して幕府に献納しています。これは、岡藩の教育水準の高さを示す資料にもなっています。しかし、藩の財政は相変わらず厳しく、藩政改革も失敗が続き、ついに文化8年(1811年)には大規模な一揆が発生しました。この一揆は、は臼杵藩や府内藩にも飛び火する大規模なもので、岡藩は一揆を起した農民の要求を全面的に受け入れることで、ようやく一揆を鎮圧しました。
11代目藩主の中川久教は、血筋的には桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の実兄にあたる人物です。彼は財政悪化の一途を辿る藩の経済を何とかしようとあれこれ対策をたてましたが、結局はうまくいきませんでした。
12代目、13代目(最後の藩主)の代でも天災が続き、財政が悪化していた岡藩はその対応に追われ、藩内で小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した「岡藩七人衆の変」などの動乱が起こっても、藩として対応することはありませんでした。
そのため、近隣の薩摩藩や長州藩のように明治維新で活躍するようなこともなく、明治維新を迎え、最後の藩主中川久成は貴族院の議員になり、生涯を政治家として過ごしました。
岡藩まとめ
岡藩はキリシタンの文化が3代目藩主まで色濃く残り、歴代藩主も教育熱心な方が多かった藩でした。
その一方で、火災や飢饉、干ばつといった天災にも頻繁に見舞われ、藩の経済は圧迫されていきます。しかし、それでも藩医を務めていた家から画家、田能村竹田を排出するなど文化的な人材には恵まれていた藩でした。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。