人吉藩(2/2)お家騒動が多い
相良家の家紋「相良梅鉢」
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7代目藩主相良頼峯には実子がありませんでした。そのため、門葉の中心人物であり、実弟でもある相良頼母を仮養子とします。若くして頼峯が亡くなったので、養子となった相良頼母が8代目藩主頼央となり、人吉藩に入りますが、その2ヵ月後、薩摩瀬屋敷という場所で休息していたところ、なにものかに鉄砲で狙撃されてその傷が元で1ヵ月後に死亡しました。この事件は長い間秘匿されていましたが、明治時代に渋谷季五郎という人物が、相良家近世文書を整理中に偶然記録を発見し、公になりました。
この暗殺事件により、頼央が23歳で子どもを残さないまま死亡したため、以後相良家は養子を迎え、短期間に藩主が4人も交代するという混迷の時代を迎えます。しかも9代目藩主相良晃長は、11歳で死亡しましたが、相良家はお家断絶をおそれて、相良頼完という別の同年代の子どもを後釜に据え、相良晃長と同一人物で、改名した、という体で押し切りました。そのため、相良頼完が実質10代目当主ですが、藩の記録では9代目藩主となっています。しかし、相良頼完も19歳の若さで死亡、藩は天災でさらに困窮します。
その跡を継いだ10代目藩主相良福将の時代には、米良山騒動という騒動が起き、182人が処罰されるという事件が起き、さらに水害や干ばつで実質的な石高が2万石から1万4千石まで減ってしまいます。そんなことが心労となったのか、相良福将は20歳で早世しました。11代目藩主の相良長寛の時代には天明の飢饉が発生します。
13代目藩主相良頼之の時代、4度目の内乱茸山騒動(なばやまそうどう)が発生します。この騒動は、頼之が家老して登用した田代政典という人物が、藩政改革の一環として茸山を入山禁止にしたことが原因です。茸山入山禁止に不満を抱いた農民1万人が一揆を起し、特権商人宅などを打ち壊したため、田代政典は責任を取って切腹しました。しかし、コの字券の裏には、次期藩主、長福の擁立をめぐり、擁立支持の家老派と擁立反対の門葉派との対立があったためことが大げさになったという説もあります。
最後の騒動、「丑歳騒動」は幕末の慶応元年(1865年)におきました。最後の藩主相良頼基の時代です。騒動の少し前、文久2年(1862年)に発生した大火「寅助火事」により、代の建物全部と、城下町の大半、さらに貯蔵していた武器も消失しました。そのため、武器を新たに購入しようと松本了一郎という藩士を起用し軍制改革にも同時に乗り出します。
了一郎を筆頭とする一派は佐幕派であり、「洋式派」と呼ばれました。一方、家老達は勤王派であり、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を維持しようとしました。そして、洋式派がオランダ式軍制への改革を推し進めたのをきっかけに、家老達が洋式派14人を上意討ちにしてしまいます。結果的に勤王派が藩の実権を握り、薩摩藩よりイギリス式軍制を導入しました。しかし、この騒動によって藩内がごたついて改革もおくれ、明治維新では新政府軍に参加しましたが、目立った活躍はほとんどできないまま明治を迎えます。
最後の藩主相良頼基も藩主を退いた後は早々に隠居し、45歳で亡くなりました。その後、相良家は子爵の位を拝領し、華族屈指の資産家となって現在まで代を重ねています。
人吉藩まとめ
人吉藩は相良家が明治維新まで治めましたが、歴史の長い家ならではの内乱が絶えず、天災も多く、決して豊かな藩とはいえませんでした。明治維新でも活躍しきれませんでしたが、今でも家は存続し、歴代の藩主は「お殿様」として人吉市のイベントなどに登場しています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。