米子藩江戸初期にのみ存在
加藤家の家紋「蛇の目」
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米子の地は、戦国時代に尼子氏と毛利氏が所有権を巡って争い続けた戦略上重要な場所でした。豊臣氏の時代米子は毛利氏の所有になり、一族の出である吉川広家が治めていました。
その支配が大きく変わったのが、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いです。
米子藩はどのように起こり、そして廃藩になったのか歴史を紐解いていきましょう。
米子藩の開藩まで
前述したように、米子は戦国時代に尼子氏と毛利氏が所有権を巡って長い間争い続けてきた地でした。
豊臣秀吉が全国を統一すると、米子を含む伯耆国の西側は毛利氏の所領になり、毛利氏一族の吉川広家が飯山城の山頂にあった砦を取り込んで米子城の築城を始めました。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、吉川広家の主君である毛利輝元が西軍の総大将になります。
しかし、吉川広家は東軍加担を主張し、毛利家存続のために密かに徳川家康と内通します。
結果的に毛利家は戦うこと無く戦線を離脱しましたが、毛利家は防長2か国29万8千石へ減封となり、吉川広家も岩国に移封じるとなりました。
吉川広家に変わって米子の地を任されたのが、豊臣秀吉の三中老であった中村一氏の嫡子、中村一忠です。中村一氏は豊臣家の重臣でしたが、自分が死去する直前に駿府城で徳川家康と対面し、東軍に味方すると約束していました。この功績により、中村一忠に米子の地が与えられたのです。
中村一忠は造りかけだった米子城の築城を引き継ぎ、完成させたうえに米子城下町も調え、商都米子の基礎を造りました。そして、米子藩を開いて初代藩主となったのです。
中村家の断絶まで
米子藩を任されたとき中村一忠はまだ11歳と幼少だったため、叔父の中村一栄と家康から一忠の後見役に命じられた横田村詮が執政家老として、藩政を担当しました。米子城の築城と城下町を造る際の采配を振るったのは、横田村詮といわれています。
しかし、年月が経つにつれて横田村詮と家臣である安井清一郎・天野宗杷らと対立するようになりました。
慶長8年(1603年)、中村一忠は安井清一郎や天野宗杷の讒言を受けて、横田村詮を殺害します。横田村詮の嫡子横田主馬をはじめとして横田村詮の家臣達はこの処遇に憤って飯山に立て篭もります。
中村一忠は隣国である出雲の堀尾吉晴の助勢を受けてかれらを鎮圧しますが、それが徳川家康の逆鱗に触れました。
自分が派遣した横田村詮が罪もないままに殺害されたということで、首謀者である安井清一郎や天野宗杷は詮議もないまま切腹を申しつけられます。中村一忠は品川で謹慎となりますが、それ以上の処分はありませんでした。
この騒ぎは後に横田騒動と呼ばれるようになりますが、この騒動の6年後の慶長14年(1609年)、中村一忠は20才の若さで亡くなります。彼には3人の子どもがいましたが、継承は認められず、そのまま米子藩は廃藩となりました。
その後、米子の地は元和3年(1617年)、播磨から因伯両国に入った池田光政の領地となり、米子城は筆頭家老の池田由之が留守居役となります。その後、寛永9年(1632年)に国替えによって因伯両国に入った池田光仲が、着座家筆頭の荒尾成利を米子城の留守居役に任じます。そして、幕末までこの荒尾家が実質城主として米子城を治め、明治維新を迎えました。
なお、歴代の米子城主は記録に残っており、幕末まで12人の城主がいました。しかし、藩主ではないので目立った功績などは残されておらず、半自治の状態で明治を迎えたと思われます。
米子藩まとめ
米子城は山陰随一の城で有りながら、米子藩はわずか1代で廃藩となって幕末まで鳥取藩の支藩となりました。もし、中村家が断絶せずに続いたら米子城はもう少し違った形で現在まで残っていたかもしれません。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。